モニュメント「桜」
文 素っ頓狂
「これ、お地蔵さん?」
「市のモニュメントだよ」
東大和市駅から西、ヨー
カドーと市民運動場の間に
あります。
前の道は、桜街道と呼ば
れ、青梅成木から江戸へ石(おうめなりき)
灰を運ぶ道でした。土埃の(つちぼこり)
舞う中を明治十五、六年頃、
村の青年達が桜を植え、美
しい並木にしました。小学
校の遠足の場所でした。正
面に富士山が見られ、運動
会も行われたそうです。
ところが、昭和二十年四
月、空襲で焼けてしまいま
した。改めて街路樹に桜を
植え、愛称を桜街道として(さくらかいどう)
復活させている最中です。
よく見れば「桜の花びらじ
ゃない」と合点されます。(がってん)
この地域、東大和市にと
って最初の大規模工業が立
地したところです。桜街道
の南に、昭和十三年、東京
ガス電気工業(株)が一面の
畑の中に工場を建設し、や
がて、日立航空機工業(株)
となって、陸軍の航空機エ
ンジンを製造しました。
正面を斜めに入る富士見
通りは、両脇に社宅が建ち
並び、工場に通う人々の通
勤道路でした。一万数千人
が勤務しました。南街の始
まりです。
左前の住宅からヤオコー
の地を含めて青年学校が建
てられ、全国から青少年が
徴用されました。戦後は最(ちょうよう)
初の中学校になりました。
昭和三十年、南側が米軍
大和基地に接収されて、宿(せっしゅう)
舎とグラウンドになってい
ました。モニュメントはそ
の経過をじっくり語りたい
かのようです。
〈2015年10月)
米軍大和基地の碑
文 素っ頓狂
「Yamato Air Stationって彫
られているわね」
「うん、ここに、米軍大和
空軍基地があったんだ」
玉川上水駅前広場周辺が
有刺鉄柵で囲われ、米国空(ゆうしてっさく)
軍の基地で、兵舎、高校が
建てられていたことを知る
人は少なくなりました。碑
の傍らの説明版は次のよう
に記しています。
「かってこの地域は雑木林
でありましたが、地域の発
展を願って、昭和の初め工
場が建設されました。この
工場は太平洋戦争のとき爆
撃にあい、すべてが灰燼に(かいじん)
帰しました。
その後、朝鮮戦争のとき、
米軍大和空軍基地が開設さ
れました。この石碑はその
とき基地正門に建設された
ものであります。
(一部省略)
平成二年一月吉日
東大和市長 尾崎清太郎」
爆撃を受けた工場跡地は
西武鉄道(株)の所有地とな
っていました。工場に併設
された青年学校の校舎(現
在のヤオコーの場所)を大
和町は唯一の中学校校舎と
して使用していました。そ
こへ、昭和二七年、突然、
国から米軍兵舎建設の通知
が届きました。町を挙げて
の反対運動が続きました。
しかし、昭和二八年、強制
収容されて米軍兵舎は建設
されました。中学校は現・
第一中学校の地に移転しま
した。その後も返還運動は
続けられ、返還と共に跡地
の住民利用を目指して運動
が広げられた地です。
へびのステッキ
文 素っ頓狂
「これって、なに・・?」
「コウモリ傘の柄・・?」
南街の栄公園の一隅です。(さかえこうえん)
モニュメントを前に、話題
が広がります。説明に
へびのステッキ
「第二次世界大戦の頃、現
在の玉川上水駅付近は雑木
林が続く少年たちの遊び場
で、縞蛇や青大将がたくさ(しまへび)(あおだいしょう)
んいたそうです。
当時、地方から日立航空(ひたちこうくうき)
機に動員された青年の中に、
へび取り上手な人がいまし
た。
へびの肉は、串に刺して
醤油をつけて焼いて食べた
そうです。また、残った皮
は、乾燥させると立派なス(かんそう)
テッキができたということ
です。(一部省略)」とあり
ます。
これには、背景がありま
す。一九三八年、当時、一
面の畑であったこの地に、
東京ガス電気工業(株)が
陸軍の飛行機のエンジンを
つくる大工場をつくりまし
た。工場は現在の桜街道の(さくらかいどう)
南側に、公園の周辺には工
員の社宅や寮がつくられま
した。翌年、日立航空機
(株)と名を変えて、工場
をさらに大きくしました。
青年学校が設けられて、全
国から工員や若者が集まり
ました。一時は一万四千人
近くになりました。その中
に、ヘビとりの名人が居て、
食糧難に備えたのです。 (しょくりょうなん)
工場は一九四五年、米軍(べいぐん)
機の爆撃で壊滅し、今では、(ばくげき)(かいめつ)
マンションやショッピング
施設になり、社宅は個人に
売り渡されて、公園が残さ
れました。
モニュメントへびとステッキ
一万二千年位前の人が
「一万二千年位前の人が清水に居たんだって?」
「うん、居たんだ。清水の集会所の周辺から清水神社の前の方にかけてね・・・」
この話を持ち出すと、たいてい、「冗談でしょ」とばかり半ば疑いの目を向けられます。大体、一万二千年位前の人って、どんな人?と突っ込みが来ます。ところが、この地域、旧石器人から古代人まで、相当に住みよかったらしいです。武蔵大和駅の方から道が登りになって、やがて、空堀川方面に下ります。そこからついた名前が「上の台」です。東大和市の指定文化財になっている縄文時代の石皿(いしざら)と磨石(すりいし)が見つかっているのもこの地域です。もっと時代が下がって平安時代の土器のかけらも見つかっています。
一九七六年に、槍先型尖頭器(やりさきがたせんとうき)という、十七㌢ぐらいのとがった石器が畑作業の最中に発見されました。そこで、一九八六年、発掘調査が行われました。
帯解林 (おびときばやし)
文 素っ頓狂
「おびときって七五三のお
祝いでしょう?」
「そう、娘さんが七歳にな
ると、誕生の時に植えてお
いた木を伐ってお祝いの資
金にしたので、帯解林って
呼ばれたらしい」
その林は清水神社の一帯(しみずじんじゃ)
にありました。現在も一部
がもとの姿をとどめて、貴
重な景観を残しています。
清水神社の参道に接する
道を北に下り、志木街道か
らは、吉岡美術園の手前、
車止めのある簡易舗装され(かんいほそう)
た歩道を右に入ります。車
の往来がないため、ゆった
り歩け、歩道の下には小川
が流れています。
ハケと呼ばれる狭山丘陵
の裾野からの湧き水(高木(たかぎ)
と狭山)が細流となって集(さやま)
まってきたものです。かっ
て、この周辺は湿地帯とな
っていました。明治 14年
の国土地理院の地図(迅速
図)には、小川と林がはっ
きりと描かれています。
今は住宅が密集していま
すが、村山貯水池が出来る
前は狭山丘陵の南麓につく
られた小さな谷ツと里山で(さとやま)
した。ここに、湖底に沈ん
だ氷川神社と熊野神社が移(ひかわじんじゃ)(くまのじんじゃ)
転して、合わせて祀られて、(まつ)
清水神社になりました。
地形をよく見ると清水神
社から北に下がる緩やかな
丘があって、その端に小川
が流れていた風景が実感で
きます。小川の縁には葭が(よし)
はえていたので葭原山と呼(よしわらやま)
ばれました。武蔵野の原に
続く林でもありました。村
人たちは、ここに植林をし
て、子供たちの生育を見守
り、お祝いをしたのでした。
(2015年4月号)
辻しょうげ
文 素っ頓狂
「“辻しょうげ”が居たん
だって、それって何?」
「昔、三角辻にいたんだ」
道路が狭く、自動車の交
通も少なかった頃、小径と(こみち)
小径が交差するところに三
角形の辻がありました。
『東大和のよもやまばなし』
は次のように語ります。
「Y字形の三角辻には悪い
神様が集まっていて、通る
人や住む人に、なにかとわ
るさをするので、「辻しよ
うげ」と言っていました。
三角辻は、石仏などの横
に、お飾りが納められたり
して、夕暮時はうす気味悪
く恐しいものでした。
「辻しようげにたかられる
といけないから、辻は足早
に通りなさい」
と常日頃、母親にいわれ
ているので子供達は、たか
られないうちにと目をつぶ
って一目散に駆けぬけまし
た。それでも運が悪いのか、
神様の気に入られたのか、
中には「しようげ」にたか
られて虫を起したような状
態になって、親をびっくり
仰天させたものでした。
五日市に、たかった「し
ようげ」を抜いてくれる人
がいて、自転車の荷掛に子(にかけ)
供を乗せて連れていきまし
た。特に祈祷を職業として(きとう)
いるわけではないのですが、
効き目があると評判でした。
数珠をかけて何やら云いな(じゅず)
がら拝むと不思議に「しょ
うげ」が抜けて、また元気
な子供に戻ったものでした。」
(p47~ 48 一部省略)
(2015年2月号)
三角辻の一つ 清水三角(庚申)神社
伝兵衛地蔵さん (でんべえ)
文 素っ頓狂
志木街道を武蔵大和駅の(しきかいどう)(むさしやまとえき)
方に向かうと、狭山と清水(さやま)(しみず)
の境目で、大きくカーブする
ところがあります。その角
(駅に向かって右側)に、
お地蔵さんが立っておられ
ます。赤いよだれかけが新
しく、いつもお花が供えられ
ています。地元からは、伝
兵衛地蔵さんと呼ばれて、
大切にされています。
それには由来があり、(ゆらい)
『東大和のよもやま話』は
次のように伝えます。
「昔、清水村に代々伝兵衛
を名乗る旧家がありました。
分家のせがれが行方不明に
なり八方手をつくして尋ね
ましたが見つかりません。
心配した本家の伝兵衛さん
はお地蔵さんを建てて祈願(きがん)
したところ、まもなく無事に
分家のせがれは帰ってきま
した。喜んだ伝兵衛さんは
お地蔵さんを自分の屋敷に
移して供養をしました。(くよう)
(後略)」
志木街道が整備される前
は、近くの畑の中にありま
した。そして、台座は摩耗(まもう)
していますが、調べると、
享保十一年(1726)、宝暦
四年(1754)、宝暦十三年
(1763)、寛政十三年(1801)
などの年号が彫られていま
す。享保年代は新田開発
が進む中で、非常に生活
が厳しい時代でした。宝暦
年代は天災が激しく、飢饉
が続いた年でした。
お地蔵さんはこれらに遭
遇した村人たちがその都度、
苦難を乗り越えるために願
いを込めてお守りしてきたこ
とが偲ばれます。現在は水
子供養、交通安全のお願
いもされるそうです。
清水観音堂
文 素っ頓狂
武蔵大和駅から西へ三百
㍍ほど行くと志木街道の北
に形の良い赤い屋根の堂が
あります。宝形造りで、狭(ほうぎょうつくり)
山三十三観音霊場第十五番
札所です。詠歌が掲げられ(えいか)
「月影も 清くうつれる 水
の面 深き誓いを 汲みてし
るらむ」と読めます。堂の
後を流れる前川、地名の清
水から、清水・橋場の観音(しみず・はしば)
様と親しまれています。
江戸時代の地誌に、「村
の中央、二間四方南向、正
観音、木の立像長を安す、
村民持」とあります。本尊(そんみんもち)
の聖観音像がいつ頃の作か
は不明です。狭山三十三観
音霊場が天明の頃(一七八
○代)に開設されたとの説
があり、それ以前から村人
に親しまれていたことが偲
ばれます。
札所は、お寺が管理する
ことが多い中で、地域の人
たちが自分たちでお守りし
ている数少ない札所です。
山口観音を一番として狭
山丘陵を東回りに廻り、隣
接の廻田・法珠寺から清水(めぐりた)(ほうじゅじ)
へと入りました。そして、
貯水池に沈んだ三光院の千(さんこういん)
手観音、狭山・霊性庵の如意(れいしょうあん)
輪観音、奈良橋・雲性寺の十
一面観音、芋窪・林堂の如意(はやしどう)
輪観音を拝して、武蔵村山
へと向かいました。
堂の周囲に貴重な石造物
が祀られています。一七二
四年の六十六部供養塔が最(ろくじゅうろくぶ)
も古く、東村山市・正福寺
の住職が関わり、周辺の広
くの地域から信仰を集めて
いました。
鉄の柵はいつでも開けら
れ、堂の中を正面から拝す
ることが出来ます。
馬ドロ
文 素っ頓狂
「村山貯水池を造るとき、
資材を運ぶのに馬でトロッ
コを引いたって云うけど、
どこを通っていたの」
「今の武蔵大和駅の西側に
ある信号の辺りさ」
大正五年(一九一六)工
事が始まると、さっそく材
料運搬のルートづくりが問
題になりました。当時の東
大和市域には鉄道が全くあ
りませんでした。川越鉄道(かわごえてつどう)
が国分寺駅から川越駅まで
走っていて、東村山にその
駅がありました。資材は
多摩川(玉石・砂利・砂
採取)→小作砂利置場→(専(おざく)
用鉄道)→小作駅(青梅鉄
道・現・JR青梅線)→立
川駅(中央線)→国分寺駅
→(川越鉄道・現・西武鉄
道)→東村山駅
まで、運ばれました。そ
れから村山貯水池下堰堤の(しもえんてい)
工事用に敷かれたのが、馬
にトロッコを引かせた馬力(ばりき)
軌道です。 (きどう)
今では、その跡を見られ
ませんが、図のように東村
山駅から志木街道を通って(しきかいどう)
現在の武蔵大和駅西側信号
機の所を曲がり、宅部池 (やけべいけ)
(タッちゃん池)から滝見
橋のところを経て工事現場
まで通じていました。
湖底に沈んだ地域に住んで
いた人の話として、「馬方
が追分を歌いながらトロッ(おいわけ)
コ1~2台をつけた馬をひ
いていくのが、家の中から
よく見えたと」と伝えられ
ます。
やがて、工事の進捗と共(しんちょく)
に輸送が追いつかなくなっ
て、蒸気機関による軽便鉄(けいべん)
道が設けられ、大正10年に
撤去されました。
馬ドロ
文 素っ頓狂
「村山貯水池を造るとき、資材を運ぶのに馬でトロッコを引いたって云うけど、どこを通っていたの」
「今の武蔵大和駅の西側にある信号の辺りさ」
大正五年(一九一六)工事が始まると、さっそく材料運搬のルートづくりが問題になりました。当時の東大和市域には鉄道が全くありませんでした。川越鉄道が国分寺駅から川越駅まで走っていて、東村山にその駅がありました。資材は
多摩川(玉石・砂利・砂採取)→小作砂利置場→(専用鉄道)→小作駅(青梅鉄道・現・JR青梅線)→立川駅(中央線)→国分寺駅→(川越鉄道・現・西武鉄道)→東村山駅
まで、運ばれました。それから村山貯水池下堰堤の工事用に敷かれたのが、馬にトロッコを引かせた馬力軌道です。
今では、その跡を見られませんが、図のように東村山駅から志木街道を通って現在の武蔵大和駅西側信号機の所を曲がり、宅部池(タッちゃん池)から滝見橋のところを経て工事現場まで通じていました。
湖底に沈んだ地域に住んでいた人の話として、「馬方が追分を歌いながらトロッコ1~2台をつけた馬をひいていくのが、家の中からよく見えたと」と伝えられます。
やがて、工事の進捗と共に輸送が追いつかなくなって、蒸気機関による軽便鉄道が設けられ、大正10年に撤去されました。
弥五右エ門さんの井戸
文 素っ頓狂
かって、清水の三角神社
の西側に、大きな欅の木が
あり、側に井戸がありまし
た。野口弥五右ヱ門さんが
明治十三年頃に掘った井戸
です。
前の道は清戸街道で、清(きよとかいどう)
瀬宿や所沢宿と八王子方面
を結びました。行商の人な
どで賑わい、畑へ行く村人
達が行き交いました。
夏の炎天下、欅の蔭でひ
と息ついて、井戸で渇いた
咽をうるおすのが何よりの
ご馳走でした。いつも「あ
りがとう」がでました。
井戸を掘るのに、三年か
かりました。費用は全部自
分持ちでした。近くにある
空掘川は水の流れが不規則
で、井戸なしには過ごせま
せんでした。村の人にとっ
ては生命の源でした。
この井戸の水を産湯にし
て十人の子を育てた人もあ
りました。「ここを通ると、
頭が下がります。」と云っ
ていました。
弥五右ヱ門さんは文政三
年(一八二○年)の生れで、
今に伝えられる清水囃子の(しみずばやし)
創始者です。高円寺村から
指導者を食客として招いて、
清水村の若者に習わせたと
伝えられます。
大欅は昭和二十二年頃に
処分されました。幹は売ら
れて、払った枝は燃料不足
の部落の人々に薪として配
られました。欅の代金は清
水神社の大太鼓の購入資金
となりました。
井戸は現地で眠りについ
ています。詳しくは『東大
和のよもやまばなし』をど
うぞ!!
弥五右エ門さんの井戸
文 素っ頓狂
かって、清水の三角神社の西側に、大きな欅の木があり、側に井戸がありました。野口弥五右ヱ門さんが明治十三年頃に掘った井戸です。
前の道は清戸街道で、清瀬宿や所沢宿と八王子方面を結びました。行商の人などで賑わい、畑へ行く村人達が行き交いました。
夏の炎天下、欅の蔭でひと息ついて、井戸で渇いた咽をうるおすのが何よりのご馳走でした。いつも「ありがとう」がでました。
井戸を掘るのに、三年かかりました。費用は全部自分持ちでした。近くにある空掘川は水の流れが不規則で、井戸なしには過ごせませんでした。村の人にとっては生命の源でした。
この井戸の水を産湯にして十人の子を育てた人もありました。「ここを通ると、頭が下がります。」と云っていました。
弥五右ヱ門さんは文政三年(一八二○年)の生れで、今に伝えられる清水囃子の創始者です。高円寺村から指導者を食客として招いて、清水村の若者に習わせたと伝えられます。
大欅は昭和二十二年頃に処分されました。幹は売られて、払った枝は燃料不足の部落の人々に薪として配られました。欅の代金は清水神社の大太鼓の購入資金となりました。
井戸は現地で眠りについています。詳しくは『東大和のよもやまばなし』をどうぞ!!
清水の庚申神社(こうしんじんじゃ)
文 素っ頓狂
清水に、珍しく庚申塔を
まつった神社があります。
三角神社とも云われます。
清水神社の正面を南に向か
い、突き当たりの道と交差
する三角地、赤い鳥居が
目につきます。
かっては周囲に雑木が茂
る低い丘で、大きな欅の木
があったそうです。砂川九
番から見えるほどで、根元
は六人が手を広げて廻すほ
ど太かったと云います。
中世に遡る「八王子道」
と江戸時代には、清戸(現 (きよと)
・清瀬市)の宿を通り、新河(しんかしがわ)
岸川に通ずる交易の道・清(きよとかいどう)
戸街道が交わる所です。村
の組頭弥五右衛門さんが掘
った井戸があり、行き交う
旅人達がほっとして憩いを
とる所でした。
社の中に二基の庚申塔が
あります。それぞれに特徴
があります。
右側は、享保十三(一七
二八)年、修験の持宝院が(じほういん)
先達となり、村人達が造立
しました。村の安全と四海
泰平を願っています。村と
共に街道を守る庚申塚であ
ったのかも知れません。
左側の塔は時代は不明で
すが、村山貯水池が建設さ
れるとき、湖底に沈む地域
から移されました。表面が
荒れていますが「山口領宅(やまぐちりょうやけべむら)
部村」と刻まれています。
取水塔から堰堤のある辺り
を「上宅部」と呼んでいま(かみやけべ)
した。江戸時代に入る前、
その地域には、独立した村
があり、村人達が、その存
在の主張として村名を刻ん
だとも推察されます。
思いのこもった庚申塔が
まつられる神社です。
清水の庚申神社
文 素っ頓狂
清水に、珍しく庚申塔をまつった神社があります。三角神社とも云われます。 清水神社の正面を南に向かい、突き当たりの道と交差する三角地、赤い鳥居が目につきます。
かっては周囲に雑木が茂る低い丘で、大きな欅の木があったそうです。砂川九番から見えるほどで、根元は六人が手を広げて廻すほど太かったと云います。
中世に遡る「八王子道」と江戸時代には、清戸(現・清瀬市)の宿を通り、新河岸川に通ずる交易の道・清戸街道が交わる所です。村の組頭弥五右衛門さんが掘った井戸があり、行き交う旅人達がほっとして憩いをとる所でした。
社の中に二基の庚申塔があります。それぞれに特徴があります。
右側は、享保十三(一七二八)年、修験の持宝院が先達となり、村人達が造立しました。村の安全と四海泰平を願っています。村と共に街道を守る庚申塚であったのかも知れません。
左側の塔は時代は不明ですが、村山貯水池が建設されるとき、湖底に沈む地域から移されました。表面が荒れていますが「山口領宅部村」と刻まれています。取水塔から堰堤のある辺りを「上宅部」と呼んでいました。江戸時代に入る前、その地域には、独立した村があり、村人達が、その存在の主張として村名を刻んだとも推察されます。
思いのこもった庚申塔がまつられる神社です。
三角神社
五十嵐氏考 p43
ところで民間信仰の対象として、庚申や馬頭観音は村人の生活と切り離せないものだが、嘉永元年(一、八四八)五月に清水村の若者たちが、持宝院の庚申尊に額堂寄進の願主となって寄付を呼びかけた記録が残っている。「それ仏神を心信するに二種の因縁門あり、第一を福徳と言い第二を定恵と号す、うんぬん」で始まる願文は別当持宝院心城の手になるものと思われるが、若者たちで二朱を集め、以下清水、後ヶ谷、廻り田、宅部各村の者が喜捨している。
庚申の話のついでに書いておくが、現在二基の庚申塔が祀られている清水八六九番地の三角地帯に、樹齢八百年をゆうにこえると思われる大けやきがあったのを、おぼえている人も少なくないだろう。あれだけの巨樹は府中明神のものを除いて多摩地区でも他に余り類を見ないと思われるが、終戦後まもなく切り倒されたようだ。その大木の下に車井戸があったが、直夏の日ざかり、その冷たい水が清戸街道を行く人々ののどをうるおしたことだろう。この井戸は清水村の組頭弥五右衛門が堀ったものだといわれるが、往昔の村人のやさしい思いやりの心がしのばれてゆかしい。
目に付きます。表参道を歴史が古い八王子道と清戸街道が交わる三角地にあるからです。
火伏せの印 (ひぶせ)
文 素っ頓狂
「お正月らしい話が聞き
たいな」
「東大和のよもやまばなし
がいい話を伝えているよ」
清水に持宝院という修験(じほういん)
の法印さんが居りました。(ほういん)
江戸時代も末の頃、年貢を(ねんぐ)
お金で納めなくてはならな
かった清水の人たちは副業
に炭焼をして、馬で淀橋ま(よどばし)
で運んで、稼ぎにしていま
した。正月の初荷で持宝院(はつに)
も出かけました。
青梅街道を進むと成子坂(なるこざか)
に馬宿があり、持宝院はほ(ばしゅく)
っとして、ひと休みするこ
とにしました。荷付け馬を
表につないで中に入り、居
合せた人達と気軽に言葉を
交しているうち、ひとりの
馬方が急に悪態をついてか(うまかた)(あくたい)
らんで来ました。
「正月のことだから、まあ
まあ」と言うことで酒が出
されました。持宝院も内心
やれやれと思ったところ、
相手の男は、
「酒の肴にどうぞ……」(さかな)
と言って、真赤におこった
炭火を火箸に挾んで差出し(ひばし)
ました。持宝院は少しも
騒がず懐から半紙を取出(ふところ)
してその炭火を包むと、
そのままゆうゆうと懐に
入れてしまいました。そ
してやおらもう一枚の半
紙を出して、
「私ばかりいただいては
済まないから、お前さん
もどうぞ・・・」
と、同じように炭火を差出
しました。相手は目を白黒
させてあやまりました。
持宝院は修業を積んだ法
印さんで、火伏せの印を結
んで火を消すことができた
のだということです。
(文字数から意訳しました)
山の神 (やまのかみ)(2013年12月号)
文 素っ頓狂
「山の神様は、狭山にもい(さやま)
らっしゃるんでしょ?」
「ちゃんとお祀りしてるよ。(まつ)
それも、とっても素敵だよ」
狭山神社の本殿の前、左
右に、小さいけれど、独立
した社があります。左側が(やしろ)
山の神社、右側が稲荷社で(いなりしゃ)
す。明治の初めまでは、山
の神社は現在の第5小学校
の近くにありました。
山の神は多くが山に祀ら
れます。村人達は祖先と共
に天候の安定、豊作を願い、
収穫が終わると感謝のため
に山からお招きして、ご馳
走をして、また、お願いす
る関係にありました。
ところが、東大和市内で
は、ほとんどが原に祀られ(まつ)
ます。狭山では特別に山ノ
神という小字を作って、原(こあざ)
の女神「カヤノヒメノミコ
ト」を祭神としています。
古事記では、イザナギ、
イザナミの神は、風の神、
木の神、山の神をお産みに
なり、引き続いて、野のた
めにカヤノヒメをお産みに
なります。カヤ=茅に表現
される穀物や植物の生育を
司る女神です。やがて、カ
ヤノヒメは山の神=大山津(おおやまつ)
見神と結婚して、霧などの
自然現象を司る神々をお産(つかさど)
になります。
村々にはほとんど水田が
なく、武蔵野の原野を開墾
した畑が生産の中心でした。
だからこそ、狭山の村人達
は祭神を原の女神、祠を山(ほこら)
の神(男神)として、二神を
一緒に生産の現地・原中に
祀ったのでしょう。その心
根が痛いくらいに強く伝わ
ります。
内堀村の庚申塔(うちぼりむら)(こうしんとう)(2013年10月号)
文 素っ頓狂
「内堀村?聞かないわ、ど
こにあったの・・・」
「村山貯水池に沈んだんだ。
上堰堤の東側あたりだよ。」(かみえんてい)
狭山・霊性庵の裏側に七(れいしょうあん)
基の石仏がまつられていま
す。一番右の馬頭観音の隣(ばとうかんのん)
に、高さ一メートル弱、一
つだけ、唐破風の傘を付け(からはふう)
ているのがこの庚申塔です。
風化が進んでいますが、よ
くみると三匹の猿の上に、
腕が六本の青面金剛像が浮(しょうめんこんごう)
き彫りになっています。上
の方に月と太陽、下の方に
二匹の鶏が彫られています。
典型的な庚申塔です。今で
は、読み取るのが難しくな
りましたが、
尊象の右側に
奉造立 庚申尊象一躯
惣村中 安全男女□□
尊象の左側に
元禄十一戌寅十一月善日
武州多摩郡内堀村
塔身の右側面に
庚申供養導師
宅部山十五世法印 寂如(やけべさん)
と刻まれています。江戸
時代も初期の一六九八年に
内堀村の善男善女がみんな
で、村の安全を願って造立
しています。それを導いた
のが三光院の住職で「宅部
山」と彫っています。
宅部は東村山駅周辺まで
に及ぶ広域地名で、「内堀」
は中世からの村名と思われ
ます。芋窪に一六八○年の
庚申塔が残され、「石川村」(いしかわむら)
を刻んでいます。両者共に、
現在では使われていない
「古村」の存在を告げる貴
重な資料です。大事に大事
にしたいです。
狭山観音堂 (2013年8月)
文 素っ頓狂
「霊性庵(嶺松庵)が正式 (れいしょうあん)
な名前? 」
「うん、わかりやすく地名
で呼んでいるけど、二つ呼
び名がある」
狭山丘陵の中腹に堂はあ
ります。狭山三十三観音十
七番札所。扁額には 霊性庵
と刻まれ、ご詠歌の
きぎ茂る
嶺の庵を訪ねきて (みね)(いおり)
うれしくもきく
法の松風
から、嶺松庵とも呼ばれて (れいしょうあん)
います。東大和市内には十
五番(清水・橋場)から十
九番(芋窪・林堂)まで五
つの札所がありますが、丁
度、真ん中に位置します。
それぞれの堂がいつ開創
されたのか、明らかではな
く、議論があります。霊性
庵については、入り口の再
建供養塔に
「年代は詳かでないが、円
乘院二十二世法印泓誉が本(泓誉 おうよ)
尊如意輪観音像の台座に元
禄五壬申九月三日」 (壬申 みずのえさる)
と記されているところから、
それ以前とされます。
元禄五年(一六九二)頃、
東大和市域の村人達は狭山
丘陵の麓に本拠を構えてい
ました。そして、南に広が
る武蔵野の原野を耕作地に
変えるため、ひと鍬、ひと
鍬、赤土を掘り起こし、雑
草や灌木をとり除いて、よ
うよう、野火止用水の際ま
で達しようとしていました。
疲労きわまる中で、敬虔
な祈りが捧げられた場が観
音堂でした。
聖徳太子石像
文 素っ頓狂
「聖徳太子様って聞いたけど?狭山に何か関係があったのかしら・・」
「直接、太子と狭山が結びつくわけではないけど、東大和市内でたった一体まつられている」
狭山円乗院の山門をくぐって本堂への石段の左側、小高い一角に、岩で囲まれるようにして太子像はあります。時代ははっきりしませんが、江戸時代につくられたと推定されています。
お顔は口元がしっかり結ばれてきりっとして、右膝を立て両手に何かを持っているようです。他の太子像の例から物差しを持っていたと考えられています。衣には朱で彩色した跡が見られます。
市内蔵敷に、太子堂があり、こちらには、鋳造の聖徳太子像が安置してあります。左官、建具、大工さんなど建築関係の方々の信仰が厚く、講が形成されていました。また、村中で太子堂の管理をしています。円乗院の太子様は露座ですが、同じような背景が考えられます。
苔が覆って独特の色合いを出して座っておられる姿に接すると、遠い昔、何もかも厳しい中で、槌音高く村づくりを進めた村人達の息吹が聞こえるようです。2013年6月号
元禄七年のお地蔵様
文 素っ頓狂
「元禄七年って云うと、一六九四年の建立ね」
「東大和市で二番目に古いお地蔵様だよ」
狭山、円乗院の山門をくぐって石段を上がると、本堂の西側に地蔵尊、灯籠などが並ぶ一角があります。その一番右側に立って居られます。
奉納
日待供養為二世安楽菩提也
元禄七申戌十一月吉日
山口領後ヶ谷村
と刻まれています。後ヶ谷村は狭山村の前身です。
この時代、東大和の村々では、狭山丘陵の南面に広がる武蔵野の原野を切り開いて新田開発を進めていました。多くが一七二○年代に開発に取りかかるのに、早くも野火止用水際まで達していました。四年前に検地が行われて、それまでは年貢がかからなかったのに、以後、年貢の対象になりました。そこで、村人達はさらに農地を増やして、生産を上げるため、最後まで残されていたそれぞれの村境を開発して、農地にしようとしていました。
新しく開墾してつくった畑は、赤土が舞い、土地が痩せていて、天候に左右されるため、生産が安定せず飢饉に襲われました。そのためか、子供が育たなかったことが伝えられます。
彫られた文字から、これからの安定を求め、子供達の安楽、菩提を願って、日待ち供養を行った祈りの像であることが偲ばれます。2013年4月号
志木街道の旧道
文 素っ頓狂
『奈良橋から武蔵大和駅の
ガード下を通る道、どうして
志木街道って云うの?』 (しきかいどう)
『うん、清瀬に「宿」がた (きよせ)
ち、志木に江戸への新河岸 (しんかしがわ)
川舟運が盛んになった頃の
広域道さ。目的地を街道
名にしたんだろうね』
この道、丹念にたどると、
所々に旧道が残されていま
す。道幅二間程度(三・六
㍍)、馬ばかりでなく、荷車
の交差も可能であったと思
われます。
この道は何に使われたの
でしょう? 正徳三年(一七
一三)、清瀬市にこの道を
使って青梅から石灰を運ん
だ記録が残ります。中継ぎ
場であった当時の上・中・
下清戸村はそれぞれ「町」(きよとむら)
と呼ばれるほど賑わいまし
た。江戸街道、青梅街道
を運ぶよりも新河岸川から
一気に船で運んだ方が大
量に運べ、運送賃が安価
になるからでした。
運んだのは、石灰ばかり
ではありません。年貢米を
中心としながら、「一般貨
物としては、下りでは、八
王子・青梅からの織物、青
梅からの薪炭、安松(現所(しんたん)(やすまつ)
沢市)からの壁土、地元か
らの酒、近在からの小麦粉、
そのほか、大麦・小麦・豆
類等の雑穀、箒・荒物等が
あり、上りでは糠・干鰯・藁 (ぬか)(ほしか)
灰・油粕等の肥料を筆頭と
し、塩・石・綿糸・小間物・
荒物・太物等が主な取扱
い商品であったようだ。」
『志木市史』としています。
僅かに残る道筋、威勢の
良いかけ声とともに若い衆
が駆け足で通った道です。
ごはん塚
文 素っ頓狂
『二つ池に浮かんでいる不
思議なモニュメント、あれ
何なの?』
『おにぎりかな!』
大抵は、わからなくて、
話がそこで途切れます。池
のほとりの説明板を見ると
新田義貞が鎌倉を攻めたと(にったよしさだ)
き(一三三三年)、『この付
近に陣を布き、「こさ池」
の水を汲んで、ごはんを炊
き、軍勢に食べさせたとい
うことです。食べさせた場
所は、こさ池に近い山の上
で、「ごはん塚」といわれ、
当時の伝説にまつわる塚が
あったそうです。』
と書かれています。こさ
池・ごはん塚は二つ池の北
方、貯水池に沈んだ地域に
ありました。東大和市に伝
わる中世の数少ない話題で、
当時に戻して関連を追うと、
一つの道筋が見えてきます。
西に位置する八幡神社の参(はちまんじんじゃ)
道は鎌倉街道との伝承があ
ります。北は新田義貞が戦
勝を祈願したという山口観
音に通じ、南は青梅橋を経
て分倍河原の合戦のあった(ぶばいがわら)
府中に達します。 そして、
ごはん塚から狭山田んぼを
越した南の峰には、東大和
市最古の永仁二年(一二九四)(えいにん)
の板碑がまつられていまし
た。
この付近は、中世には、
現在では想像も付かない世
界が広がっていたことが考
えられます。モニュメント
はそんのことを話したがっ
ているようです。
ごはん塚
文 素っ頓狂
『二つ池に浮かんでいる不思議なモニュメント、あれ何なの?』
『おにぎりかな!』
たいていは、わからなくて、話がそこで途切れます。池のほとりの説明板を見ると新田義貞が鎌倉を攻めたとき(一三三三年)、『この付近に陣を布き、こさ池の水を汲んで、ごはんを炊き、軍勢に食べさせたということです。食べさせた場所は、こさ池に近い山の上で、「ごはん塚」といわれ、当時の伝説にまつわる塚があったそうです。』
と書かれています。こさ池・ごはん塚は二つ池の北方、貯水池に沈んだ地域にありました。東大和市に伝わる中世の数少ない話題で、当時に戻して関連を追うと、一つの道筋が見えてきます。少し西に位置する八幡神社の参道は鎌倉街道との伝承があります。北は新田義貞が戦勝を祈願したという山口観音に通じ、南は青梅橋を経て分倍河原の合戦のあった府中に達します。そして、ごはん塚から狭山田んぼを越した南の丘陵には、東大和市最古の永仁二年(一二九四)の板碑がまつられていました。
この付近は、中世では、現在では想像も付かない世界が広がっていたことが考えられます。そんなことを思いながらモニュメントを見ると、いかにも話したそうな気配を感ずるから不思議です。
行人塚 (ぎょうにんづか)
文 素っ頓狂
『狭山に姥捨て山の話が伝(うばす)
わるんだって?』
『貯水池の中の大筋端って(おおすじばた)
ところに、3㍍くらいの塚
があってさ・・・』
フエンスで囲われて、今
では訪ねられませんが、行
人塚と伝わる小さな塚があ
ります。「東大和のよもや
まばなし」はこの塚につい
て、次のように記します。
『昔、ここは足腰の立たな
くなった老人や、行きだお
れの病人達が、静かに死を
待つ場所であったという言
い伝えがあります。(中略)
いつ頃のことかさだかで
はありませんが、元禄の頃
といわれていますが、一人
のお坊さんがここを通りか
かり、あまりに悲惨な様子
を悲しみ、里人達にその供
養をたのみました。
「私が打つ鉦(かね)の音
を聞いたら、里人よ山にの
ぼってきて死体をねんごろ
に葬ってほしい」
と。
それからというものお坊
さんの打つ鉦の音が山合い
にひびくと、里人達は山に
登って死人を手厚く葬るよ
うになりました。(後略)』
江戸時代、狭山丘陵周辺
の村は、天候に左右されて
作物の不作がすぐ飢饉に繋(ききん)
がりました。その証言の一
つと、きつく噛み締めます。
廻田たんぼを開いた人
文 素っ頓狂
『狭山に村が出来たのはいつ頃』
『』
高木・後ヶ谷村境界
文 素っ頓狂
『後ヶ谷村って、聞いたことないよ』
『狭山村の前身でさ・・』
東大和市内で江戸時代の村の境界を目に出来るところは、めったにありません。それが、画像の高木村と後ヶ谷村の境界の一部に良く残されています。
狭山丘陵から連なる低い尾根の中心に村境が決められて、両脇につくられた浅い谷戸に集落が営まれました。しかも、それぞれに名主の館があり、典型的な江戸の村の姿が偲ばれます。
高木村には村山貯水池に沈んだ区域がありませんでした。しかし、丘陵の南麓に幕府の直轄領をおさめる名主と幕府の家臣に与えられた区域をおさめる名主が二百㍍ほどの間を置いて並んでいました。これに対して、谷を背負っているような名の後ヶ谷村には、貯水池に沈んだ区域に古村があり、両区域が狭山丘陵の嶺を南北に挟んで、それぞれ、名主を置いて一村を構成していました。
公道です。歩いてその雰囲気を味わって下さい。
狭山・神明宮の大欅(二)
文 素っ頓狂
『幕府御用船のために売
った狭山・神明社の大欅、 (おおけやき)
伐られて何が起こったの』
『普通ごとじゃなかった』
「根の切り屑を貰って焚き
物にした家では火災が起こ
り、中には大熱病を患い、
神罰と悟って日参して祈っ
たが妻を亡くす人も出た。
村の役人、氏子は驚いて、
二十五座の神楽を奏して神(かぐら)
に詫びた。でも、かなわず、
その後も疫病が流行し、五(えきびょう)
年目に退散した。」と『狭
山之栞』は伝えます。
そして、当時の名主さん
の家に伝わる文書には「安
政二年(一八五五)三月四
日、南谷神明宮石坂並びに
石の鳥居供養、右は去年中
欅代金にて立てる。・・・」
と記されています。村では、
前号で紹介した経過で売り
渡した二十五両の代金で、
石坂と石の鳥居を奉納して
供養したことがわかります。
この年、フランス艦隊が
下田に、イギリス艦隊が函
館に来航します。対外的に
緊張が高まる中、村々には
押し込み、盗難など治安の
乱れが見られ、関東取締出
役が出張ります。そして、
十月二日には安政の大地震(あんせい)
が起こっています。
狭山神社本殿の前にある(さやまじんじゃ)
石灯籠の一つに嘉永七年の(いしどうろう)(かえい)
年号が刻まれていて、大欅
伐採の関係と思われ、この
時の供養が偲ばれます。
狭山・神明宮の大欅(一)
文 素っ頓狂
『狭山の消防団詰所のとこ
ろに神社があって大きな欅
があったんだって?』
『ペリー来航の時、伐られ
て、大騒動になる』
消防団第二分団の詰所の
一角に「神明社跡地」の碑(しんめいしゃあとち)
があります。かって、ここ
に神明神社(現在は狭山神
社に合祀)が祀られ、神木(ごうし)
として幹周り四メートル
余(一丈四尺)の欅があり(けやき)
ました。
嘉永六年・一八三五年、(かえい)
ペリーが羽田沖に来て、幕
府に鎖国を解き、開国通商
を求めます。幕府は蒸気船
を造って対抗することにな
り、船材に御用商人・角兵
衛が当時の後ヶ谷村にその
欅を買いに来ました。
村人達は、断りました。
それは、文化年間、神明社
の別当をつとめていた円乗(べっとう)
院が本堂を建て替えること
になり、用材として欅を切
ることに檀家の協議が整っ
て、円乗院の住職が「読経
して神慮を慰め、無心無垢(しんりょ)(むしんむく)
の小児に籤を引かせて、吉(くじ)
凶を判断しようとした」時、
凶と出て、伐る事を止めた
経過があったからでした。
そして、時の代官・江川
太郎左衛門に伐らないよう
に「赦免」を申し出ました。(しゃめん)
ところが、幕府の海防に携
わって、東京湾に台場を造(だいば)
って備えようとしていた江
川代官からは「幕府の用材」
だから、相当の代価で売り
渡すようにとの指令が来ま
した。このため、村人達は
角兵衛の手代・久米川村の
升五郎に二十五両で売り渡
しました。それから騒動が
起こります。 次に続く。
狭山・神明宮の大欅(一)
文 素っ頓狂
『狭山の消防団詰所のところに神社があって大きな欅があったんだって?』
『ペリー来航の時、伐られて、大騒動になる』
消防団第二分団の詰所の一角に「神明社跡地」の碑があります。かって、ここに神明神社(現在は狭山神社に合祀)が祀られ、神木として幹周り四メートル余(一丈四尺)の欅がありました。
嘉永六年・一八三五年、ペリーが羽田沖に来て、幕府に鎖国を解き、開国通商を求めます。幕府は蒸気船を造って対抗することになり、船材に御用商人・角兵衛が当時の後ヶ谷村にその欅を買いに来ました。
村人達は、断りました。それは、文化年間、神明社の別当をつとめていた円乗院が本堂を建て替えることになり、用材として欅を切ることに檀家の協議が整って、円乗院の住職が「読経して神慮を慰め、無心無垢の小児に籤を引かせて、吉凶を判断しようとした」時、凶と出て、伐る事を止めた経過があったからでした。
そして、時の代官・江川太郎左衛門に伐らないように「赦免」を申し出ました。ところが、幕府の海防に携わって、東京湾に台場を造って備えようとしていた江川代官からは「幕府の用材」だから、相当の代価で売り渡すようにとの指令が来ました。このため、村人達は角兵衛の手代・久米川村の升五郎に二十五両で売り渡しました。それから騒動が起こります。 次に続く。
後ヶ谷村探し
文 素っ頓狂
『宅部が貯水池に沈んだのはわかったけど、今の狭山とはどういう関係があるの?』
『もう一つ「後ヶ谷村」があって、宅部村と合併して狭山になったんだ』
狭山の史跡を紹介するのに避けて通れないのが「宅部村」と「後ヶ谷村」です。明治8年この二つの村が合併して「狭山村」になりました。
円乗院の開山
文 素っ頓狂
『円乗院は古くからのお寺って聞いたけど?』
『平安時代末の記録があるよ』
江戸時代の末に幕府がまとめたこの地方の地誌「新編武蔵風土記稿」に
「円乗院・・・字南分と云ふ所にあり、・・・開山は賢誉法印と云、平治元年二月八日寂せり、・・・」
とあります。NHK大河ドラマ「平清盛」が間もなく描くと思われる一一五九年、平治の乱の年です。源氏の源義朝、義平が平清盛と戦って敗れ、頼朝が捕らえられて、翌年伊豆に流されます。
三年前の保元の乱には、円乗院から狭山丘陵を一峰越した山口に山口氏が構えていて、村山党の金子氏、仙波氏などとともに華やかに参戦しています。狭山丘陵に中世の幕開けに繋がる武蔵武士の動きが活発になるときです。
「新編武蔵風土記稿」はさらに、「新義真言宗、豊嶋郡石神井村三寶寺末成り、」とその出自を続けます。
隣接の中藤村(武蔵村山市)の古寺・真福寺が京都醍醐三宝院、野口村(東村山市)正福寺が鎌倉建長寺派の
「宅部の円達坊」 (やけべのえんたつぼう)
文 素っ頓狂
『「出ば出ろ」って、よも(でば でろ)
やまばなし面白いわね。』
『宅部の氷川神社をお祀り
していた円達院だろう?』
東大和のよもやま話から
要約してお伝えすると
「昔、宅部に円達院という
法印さんがおりました。御
朱印五石の氷川神社をお守
りしている修験でした。 (しゅげん)
氷川神社は村山下貯水池
の出来る前、堰堤の取水塔(えんてい)
に近い松や雑木の茂る山の
上にありました。宅部の村
から氷川神社の脇を登って
南麓の清水村へ続く道は、(なんろく)(しみずむら)
踏み跡のような細い道で、
昼でも気味の悪い道でした。
円達院は、この道を夜更け(よふ)
に提灯を一つぶらさげて一(ちょうちん)
人で歩いていました。
ふと、もののけの気配を
感じて脇差を抜きました。(わきざし)
「出ば出ろ、宅部の円達院」
と大声で叫びながら刀を右
に左に振り廻して歩いたそ
うです。・・・」
円達院は一五○四年、所
沢の実蔵坊、久米川の福泉(じつぞうぼう)(ふくせん)
坊と一緒に「円達坊」の名
で熊野信仰の先達として古(せんだつ)
文書に現れます。京都聖護(しょうごいん)
院の配下でした。狭山丘陵
一帯は熊野信仰が盛んであ
ったことがわかります。
村にお医者様のいなかっ
た頃です。修験は、山で独
特の修行を重ね、神社と寺
院の間に立って、祈祷やお(きとう)
祓い、まじないをして村人
達の生活に密着していまし
た。疱瘡などの流行病には(ほうそう)
悪病退治の行事を取り持ち
ました。村山貯水池建設の
際、この氷川神社と熊野神
社を合祀して清水神社とな(ごうし)
りました。
『宅部は古代に注目って、
云ってたけど、何故さ?』
『宅部から流れる川は柳瀬
川になり、荒川に合流する。
まだ東大和では見つかって
いない弥生文化は荒川に沿
って狭山丘陵へ来たらしい。
それが、貯水池に沈んだ
宅部にあったかもしれない
からさ!』
「宅部」(二) (やけべ)
文 素っ頓狂
『氷川神社と三光院は宅部
から遷られのでしょう?』(うつ)
『村山貯水池の建設による
けど、東大和の謎の中世を
解く鍵がある。』
狭山丘陵周辺の中世は難
しい事ばかりです。いつ頃
から、どの地域にどのよう
な人が集落をつくり定着を
していたのかが、はっきり
しません。宅部に熱い眼差
しが注がれます。宅部は古
代に注目ですが、中世も魅
力的です。
宅部の氷川神社(清水神社
に合祀)には、一二一四年
の創建棟札があったと伝え
られます。三光院は江戸時
代の地誌『新編武蔵風土記(しんぺんむさしふどきこう)
稿』では、開山の円長が一
一一二年入滅、寺伝では、
開山の快光が一三五七年入
寂、開基の石井美作が一三
五九年薨去としています。(こうきょ)
この時に近い、一三六八
年のことです。立川市にあ
る普済寺がお経を印刷して(ふさいじ)
発行しました。そのお経の
行間に、発行に貢献した人
の名前が書かれていて、
「宅部美作入道貞阿」があ(やけべみまさくにゅうどうじょうあ)
ります。宅部の谷にはこの
時代に神社や寺を祀る人々
が定着をして、美作を名乗
る有力な実力者が居たこと
が類推されます。
この年、武蔵に勢力を張
っていた河越氏が鎌倉方に
反乱し、隣の山口の谷では、
河越方に加わった山口氏の
主が戦死をしています。二
つの谷ではどのように連携
していたのでしょうか。新
築なった清水神社を目にし
て千三百年代が偲ばれます。
「宅部」(二)
文 素っ頓狂
『氷川神社と三光院は宅部
から遷られのでしょう?』
『村山貯水池の建設による
けど、東大和の謎の中世を
解く鍵がある。』
狭山丘陵周辺の中世は難
しい事ばかりです。いつ頃
から、どの地域にどのよう
な人が集落をつくり定着をしていたのかがはっきりしません。宅部に熱い眼差しが注がれます。宅部は古代に注目ですが、中世も魅力的です。
宅部の氷川神社(清水神社に合祀)には、一二一四年の創建棟札があったと伝えられます。三光院は江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』では開山の円長が一一一二年入滅、寺伝では、開山の快光が一三五七年入寂、開基の石井美作が一三五九年薨去としています。
この時に近い、一三六八年のことです。立川市にある普済寺がお経を印刷して発行しました。そのお経のあい間に、発行に貢献した人の名前が書かれていて、「宅部美作入道貞阿」があります。宅部の谷にはこの時代に神社や寺を祀る人々が定着をして、美作を名乗る有力な実力者が居たことが類推されます。
この年、武蔵に勢力を張っていた河越氏が鎌倉方に反乱し、隣の山口の谷では、河越方に加わった山口氏の主が戦死をしています。二つの谷ではどのように連携していたのでしょうか。新築なった清水神社を目にして千三百年代が偲ばれます。
「宅部」(一)
文 素っ頓狂
『前回「宅部」の話が出た やけべ
けど、場所はどこなの?
どうして、宅部なの?』
『場所は図にしてみた。地
名の由来は、難問で、簡単
には答えられないよ』
『だって、狭山、清水の歴 さやま しみず
史散歩にはさけて通れない
でしょう!』
宅部は東大和市(上宅部) かみやけべ
と東村山市(下宅部)の両
方に関係します。ここと石
川の谷が東大和の村々の歴
史の発祥地のようです。
縄文銀座と呼ぶほど狭山
丘陵で盛んに活動した縄文
の人々は、なぜか三千年位
前から姿を見せなくなりま
す。その時、下宅部に、定
着性を強める人々が暮らし
ました。川を利用してトチ
やドングリの実をさらして
食料にし、漆塗りの弓や櫛 うるしぬり くし
を使っています。
同じ地域で紀元後六五○
年代から八○○年代にかけ
て、役人でしょうか文字を
使う人が居ました。また、
地続きの丘から五重塔のよ
うな姿をした「瓦塔」(国宝) がとう
が発見されています。古代
の祈りの場があったことを
思わせます。
東大和市域では残念なが
ら、貯水池に沈んでいるた
め不明です。
鎌倉時代になると、上宅
部に、一二一四年の棟札の
伝えがある氷川神社が創建
され、東村山市の正福寺に しょうふくじ
北条時宗が来て病にかかっ
たとの伝承が伝わります。
北の山口では、村山党の
山口氏が勢力を張っていま
した。狭山、清水の史跡は
宅部の地域に関連するもの
が多いです。次へ続く
「宅部」(一)
文 素っ頓狂
『前回「宅部」の話が出たけど、場所はどこなの? どうして、宅部なの?』
『場所は図にしてみた。地名の由来は、難問で、簡単には答えられないよ』
『だって、狭山、清水の歴史散歩にはさけて通れないでしょう!』
宅部は東大和市(上宅部)と東村山市(下宅部)の両方に関係します。ここと石川の谷が東大和の村々の歴史の発祥地のようです。
縄文銀座と呼ぶほど狭山丘陵で盛んに活動した縄文の人々は、なぜか三千年位前から姿を見せなくなります。その時、下宅部に、定着性を強める人々が暮らしました。川を利用してトチやドングリの実をさらして食料にし、漆塗りの弓や櫛を使っています。
同じ地域で紀元後六五○年代から八○○年代にかけて、役人でしょうか文字を使う人が居ました。また、地続きの丘から五重塔のような姿をした「瓦塔」(国宝)が発見されています。古代の祈りの場があったことを思わせます。
東大和市域では残念ながら、貯水池に沈んでいるため不明です。
鎌倉時代になると、上宅部に、一二一四年の棟札の伝えがある氷川神社が創建され、東村山市の正福寺に北条時宗が来て病にかかったとの伝承が伝わります。
北の山口では、村山党の山口氏が勢力を張っていました。狭山、清水の史跡は宅部の地域に関連するものが多いです。次へ続く
きつねの恩返し
文 素っ頓狂
『村山貯水池に沈んだとこ
ろに、「宅部」というとこ(やけべ)
ろがあったんだって?』
『上の堰堤から東村山駅ま(えんてい)
での広い地域だった』
『暑いから、むずかしくな
い話がいいな』
下の堰堤に立つと取水塔(しゅすいとう)
が二つ見えます。手前の方
の辺りに氷川神社(現在は清(ひかわじんじゃ)
水神社に合祀)がありまし(ごうし)
た。一二一四年の棟札があ
ったと伝えられます。とこ
ろが、一八四六年類焼によ(るいしょう)
り焼失してしまいました。
その時の話です。遠い方の
取水塔の辺りにあったお宅
に伝わります。
「当時はきつねやたぬきな
ど、たくさんいたので、き
つねとりという商売の人が
いました。
○○さんの家に親子のき
つねが遊びにくるようにな
りました。寒い日にはいろ
り端にきてあたっていくほ
どになりました。家の者は
きつねとりに撃たれないか
と心配していました。
雪の日、おばあさんは
「きつねとりがくるから身
を引いておくれ」と頼みま
した。きつねは出ていきま
した。
山里の部落に大火事があ
りました。○○さんの家は
焼けずに残りました。「こ
れはきっときつねが守って
くれたのだ」と喜びました。
○○さんが清水に移転した
時、いろりのあったところ
にきつねの大きな穴があっ
たそうです。」(東大和のよ
もやまばなし、一部省略)
移転は大正五年(一九一六)
頃から始まりました。人と
動物が共生していた時代は(きょうせい)
遠くなりました。
宅部の氷川神社
文 素っ頓狂
『宅部にあった氷川神社はどこへ行ったの?』
『貯水池が出来たとき、清水へ移転して、熊野神社と合祀して今は清水神社になっている』
『さんざん捜したけれど、見つからないわけだ』
高木の馬頭観音(二) (ばとうかんのん)
文 素っ頓狂
『高木の馬頭様は、なぜ、
ニトリの北側(新青梅街道)
に祀られていたの?』
『一八二八年、馬頭様が祀
られた頃、東大和の村人達
は馬に薪や炭や野菜を積ん
で、大挙して江戸へ売に行
っていたんだ。』
『その道中安全をお願いし
たのね・・・。』
凄いものです。駄賃稼ぎ(だちんかせぎ)
のため「馬持ち百姓は、山
で木を伐って炭や薪にする
か、或いは、青梅、飯能、(はんのう)
五日市、八王子などへ行っ
て炭薪を買い入れて、夜中
の十時頃村を出発、江戸の
お屋敷に納め、翌日の午後
六時頃帰って来る」と後ヶ
谷村(現在の狭山)の記録
(一八六三年)にあります。
この年、高木村では戸数二
九に対して馬が一三頭いま
した。半数近くの家が、農
業の合間に、こうして収入
を得ていたことになります。
山口領の悪米といって、年(やまぐちりょう)
貢を米で納められず、早く
から金納を義務づけられ、
その稼ぎが必要でした。途
中、内藤新宿では、通行料(ないとうしんじゅく)
を要求されました。稼ぎの
上前を取られては堪りませ
ん、喧嘩もありました。全
部自己責任です、道中の安
全祈願は必死です。馬頭様
はこの村人達の願いのまと
でした。江戸街道が新青梅
街道となり道巾を広げるた
め、昭和三四年、馬頭様は
高木神社の前に移られまし
た。
青梅街道の道筋が現在の
桜街道に移っても、東大和
の村人達には、かって、地
頭が通った道そのものが
「江戸街道」でした。
高木の馬頭観音(一) (ばとうかんのん)
文 素っ頓狂
『高木神社の前にある馬頭
様は江戸街道にあったんだ
って?』
『うん、ニトリの北側、北
に向かう道路との交差点』
『へえー、新青梅街道!
昔、石灰を運んだ道でしょ。(せっかい)
道中の安全を見守ったんだ』
『いや、そう簡単じゃない
んだ』
秀吉に領地替えを命じら
れた家康は、一五九一年(八
王子城攻撃の翌年)、直属
の家臣を狭山丘陵周辺の村
々に配属します。家臣は家
族共々村に住んで、江戸城
まで馬で通勤しました。馬
頭様のあった道です。
一六○○年、関ヶ原で勝
利した家康は、一六○三年
江戸に幕府を開き、江戸城
を整備します。この時、白
壁用の石灰を成木から運ん(なりき)
だ道が最初の江戸街道です。
東大和市には江戸街道が
もう一つあります。ダイエ
ーとヨーカドーの間を通る
桜街道です。幕府開設後五
十年、江戸は水不足。多摩
川(羽村)から上水を引くこ(はむら)
とになりました。一六五三
年、玉川上水が完成します。
翌年、早くも、岸村(武蔵(きしむら)
村山市)の小川九郎兵衛が動
きます。石灰運搬の中継所
をつくるからとの新田開発
(小川村)です。宿には玉(しゅく)
川上水からの水が供給され
ました。水を得て、街道の
ルートは変わりました。箱
根ヶ崎から「青梅橋」を経
て小川村に達する現在の桜
街道の道筋です。
高木の馬頭観音は一八二
八年につくられています。
石灰を運ぶ様子も道筋変更
のいきさつも知りません。
では、なぜ、最初の江戸
街道筋に立っていたのでし
ょう。次号で紹介します。
高木の馬頭観音(一)
文 素っ頓狂
『高木神社の前にある馬頭様は交通安全の仏様でしょう。江戸街道にあったんだって?
石灰を運んだ道と聞いたけど?』
『うん、ニトリの北側、北に向かう道路との交差点のところだ』
『へえー、今の新青梅街道! 馬頭様は、そこで、お守りしてたんだ』
『いや、そう簡単じゃないんだ』
秀吉に領地替えを命じられた家康は、一五九一年五月(八王子城攻撃の翌年)、直属の家臣団を狭山丘陵周辺の村々に配属します。地元では「地頭」と呼ばれました。家族共々村に住んで、江戸城まで田無の橋場を経て馬で通勤しました。最初の江戸への細道です。
一六○○年、関ヶ原の合戦で勝利した家康は、一六○三年、江戸に幕府を開き、翌年から江戸城を整備します。この時、白壁用の石灰を成木で焼いて運んだ道が、地頭も通った江戸街道です。その道に馬頭様が立っていました。
東大和市には江戸街道がもう一つあります。ダイエー、ヨーカドーの間を通る桜街道です。江戸の人口が増え、水不足になって、多摩川(羽村)から上水を引くことになりました。一六五三年、玉川上水が完成します。この動きに乗ったのが岸村(武蔵村山市)の小川九郎兵衛です。箱根ヶ崎から田無まで、茫漠とした武蔵野が広がり、水場もなく、誰も住んでいませんでした。石灰運搬は苦労したようです。
上水完成の翌年、小川氏は現在の小平市に、石灰運搬の中継所(継立場)をつくるからと、新田開発(小川村)を進めます。完成した小川宿には玉川上水からの水が供給されました。安定した水を得て街道のルートが変わります。箱根ヶ崎から東大和市駅の近くの「青梅橋」を通って小川村に達する道筋・現在の桜街道です。
高木の馬頭観音はこの様子を見ていたのでしょうか。馬頭様は一八二八年につくられています。ですから、石灰を運ぶ様子も道筋変更のいきさつも知りません。では、なぜ、街道筋に立っていたのでしょう。次号で紹介します。
謎の清戸街道 (きよとかいどう)
文 素っ頓狂
『戦国時代の道って、八王
子道の他にはないの?』
『あくまでも、仮定だけど、
高木神社の前を通る清戸街
道があげられるかな』
NHKの大河ドラマ「江」(ごう)
が始まりました。その時代、
武蔵では、小田原が本拠の
後北条氏が、身内の氏照を(ごほうじょうし)
多摩の大石氏に婿入りさせ
て八王子に拠点を築きます。
氏照は信長の安土城のお祝
いに部下を派遣しています。
一方で、青梅で抵抗を続け
る三田氏を破って、多摩を
支配し、房総へと進出を図
ります。しかし、河越城は(かわごえじょう)
手にしたものの、岩附城に(いわつきじょう)
は敵方・上杉謙信の武将太
田氏が構えていて、武蔵は
緊張していました。
そのため、「境目大切」(さかいめたいせつ)
な場として滝山城と共に清(たきやまじょう)
瀬に番所を設けました。
一五六四年五月、氏照は
三田氏の旧臣四一人に番所
への勤務を命じます。午前
八時前に箱根ヶ崎に集まり、
一騎も不足ないよう、遅れ
た場合は切腹、とのきつい
命令です。
さて、ただならぬ空気に
包まれた中、番衆は清瀬ま
で、どの道を通ったのでし
ょう? 箱根ヶ崎で、道は
狭山丘陵の南北に分かれま
す。北側には西勝院、北野(さいしょういん)
天神など中世からの拠点が
あり、南側には村山道と連
結して東大和の奈良橋から
東村山の鎌倉街道を経て清
瀬に至る清戸街道がありま
す。もしかしたら、緊張し
た面々が高木神社の前を通
ったことが考えられます。
戦国の謎解き、年明け、
どうか新しい発見をお願い
します。
謎の清戸街道(きよとかいどう)
文 素っ頓狂
『戦国時代の道って、八王子道の他にはないの?』
『あくまでも、仮定だけど、高木神社の前を通る清戸街道があげられるかな』
NHKの大河ドラマ「江」(ごう)が始まりました。その時代、武蔵では、小田原が本拠の後北条氏(ごほうじょうし)が、身内の氏照(うじてる)を多摩の大石氏に婿入りさせて八王子に拠点を築きます。氏照は信長の安土城(あづちじょう)のお祝いに部下を派遣しています。一方で、青梅で抵抗を続ける三田氏を破って、多摩を支配し、房総へと進出を図ります。しかし、河越城(かわごえじょう)は手にしたものの、岩附城(いわつきじょう)には敵方・上杉謙信の武将太田氏が構えていて、武蔵は緊張していました。 そのため、「境目大切」(さかいめたいせつ)な場として滝山城(たきやまじょう)と共に清瀬に番所(ばんしょ)を設けました。
一五六四年五月、氏照は三田氏の旧臣四一人に番所への勤務を命じます。午前八時前に箱根ヶ崎に集まり、一騎も不足ないよう、遅れた場合は切腹、とのきつい命令です。
さて、ただならぬ空気に包まれた中、番衆は清瀬まで、どの道を通ったのでしょう? 箱根ヶ崎で、道は狭山丘陵の南北に分かれます。北側には西勝院(さいしょういん)、北野天神など中世からの拠点があり、南側には村山道と連結して東大和の奈良橋から東村山の鎌倉街道を経て清瀬に至る清戸街道があります。もしかしたら、緊張した面々が高木神社の前を通ったことが考えられます。 戦国の謎解き、年明け、どうか新しい発見をお願いします。
謎の清戸街道
文 素っ頓狂
『前号で戦国時代の道として八王子道が出たけど、他にはないの?』
『あくまでも、仮定のまた仮定の想定だけど、高木神社の前を通る清戸街道があげられるかな』
NHKのドラマ「江」が始まりました。その時代の武蔵の出来事です。小田原を本拠にして戦国大名を目指す後北条氏は、身内の氏照を多摩地方の勢力者・大石氏に婿入りさせる形で八王子に拠点を築きます。氏照は信長の安土城のお祝いに部下を派遣しています。一方で、青梅地方に勢力を張って抵抗を続ける三田氏を破って、多摩を支配下におさめ、武蔵から房総へと進出を図ります。しかし、河越夜戦(一五四六年)によって河越城は手にしたものの、この時期、岩附城には敵方・上杉謙信の武将太田氏が構えていて、江戸城までの地域は軍事的に緊張し、混沌としていました。そのため、清瀬周辺を「境目大切」なところとして、防備と警備・非常連絡のために番所を設けていました。
一五六四年五月、氏照は三田氏の旧臣総勢四一人に、その清戸番所へ勤務するように命じます。午前八時前に箱根ヶ崎に集まり、清戸番所の警備に付け、一騎も不足ないように、遅れた場合は、切腹とのきつい命令です。
狭山丘陵の周辺は慌ただしい空気に包まれていたと思われます。さて、清戸番衆は、清瀬まで、どの道を通ったのでしょうか? 狭山丘陵の西端に位置する箱根ヶ崎で、道は丘陵の南北に分かれます。北側には西勝院、北野天神など中世からの拠点があり、この道が有力候補とされています。南側には村山道と連結して東大和市の奈良橋から東村山市の鎌倉街道を経て清瀬に至る清戸街道があります。もしかしたら、緊張した面々が高木神社の前を通ったことが考えられます。戦国の謎解きには格好の問題です。年明け、どうか新しい発見をお願いします。
八王子道
文 素っ頓狂
『東大和には戦国時代の道はないの?』
『発掘して確かめなくては何とも云えないけれど、「八王子道」があり、道筋としては充分考えられる。高木を起点としているんだ。』
空堀川と奈良橋川が合流する少し南側に、西に向かう斜めの道があります。新青梅街道で途切れ、市役所の近くで再び現われて、途切れ途切れにモノレールの桜街道駅付近に至ります。全体として、はっきりと八王子方面に向かいます。
蔵敷(ぞうしき)には、かって、八王子道と呼ばれる地域(小字)がありました。江戸時代末から昭和の初めまで賑わったそうです。交易の道・絹の道であったかも知れません。
もっと遡って、戦国時代の道とも考えられます。秀吉が全国を制覇(せいは)して家康が関東に移るまで、関東は戦国大名・後北条氏(ごほうじょうし)が支配していました。小田原に本拠を置き、東大和市周辺は八王子城の氏照(うじてる)の勢力下にありました。八王子城は一五九○年、秀吉の命により前田利家、上杉景勝軍に攻められて没落します。そして、翌年には、家康直属の家臣が東大和の村々に領主(地頭)(じとう)として配属されてきます。その時の引き継ぎの仕事を宅部(やけべ)(村山貯水池に沈んだ)の杉本氏が処理したと伝わります。とすれば、杉本氏は八王子城主と接触があったはずです。高木の八王子道は杉本氏の居所への道・杉本坂へと接続しています。戦国時代の貴重な道跡の有力候補です。
八王子道
文 素っ頓狂
『東大和には戦国時代の道はないの?』
『発掘して確かめなくては何とも云えないけれど、「八王子道」があり、道筋としては充分考えられる。高木を起点としているんだ。』
空堀川と奈良橋川が合流する少し南側に、西に向かう斜めの道があります。新青梅街道で途切れ、市役所の近くで再び現われて、途切れ途切れにモノレールの桜街道駅付近に至ります。全体として、はっきりと八王子方面に向かいます。
蔵敷には、かって、八王子道と呼ばれる地域(小字)がありました。江戸時代末から昭和の初めまで賑わったそうです。交易の道・絹の道であったかも知れません。
もっと遡って、戦国時代の道とも考えられます。秀吉が全国を制覇して家康が関東に移るまで、関東は戦国大名・後北条氏が支配していました。小田原に本拠を置き、東大和市周辺は八王子城の氏照の勢力下にありました。八王子城は一五九○年、秀吉の命により前田利家、上杉景勝軍に攻められて没落します。そして、翌年には、家康直属の家臣が東大和の村々に領主(地頭)として配属されてきます。その時の引き継ぎの仕事を宅部(村山貯水池に沈んだ)の杉本氏が処理したと伝わります。とすれば、杉本氏は八王子城主と接触があったはずです。高木の八王子道は杉本氏の居所への道・杉本坂へと接続しています。戦国時代の貴重な道跡の有力候補です。
連合戸長役場跡 (れんごうこちょうやくばあと)
文 素っ頓狂
聞き慣れない言葉ですが
高木神社(塩竃神社)と社務(しおがま)
所の間に白壁の蔵がありま
す。良くも残されたりで感
激です。
明治十七年のことです。
東大和の地域には、芋窪・ (いもくぼ)
蔵敷・奈良橋・高木・狭山・清(ぞうしき)(さやま)
水の六つの村がありました。
多摩湖に沈んだ地域と狭山
丘陵の麓を生活の拠点とし
て、玉川上水の近く、野火
止用水際まで一面に畑が広
がっていました。祖先が必
死に切り開いた新田のたま
ものです。丘陵の麓から南
に向かって開墾をしたため、
南北に細長い村となりまし
た。村境はお互いに気を遣
ったのか、後で開墾するほ
ど権利意識と独立意識旺盛
な村々でした。
新田は地味に劣り、村は
豊かではありませんでした。
そこへ明治初年のデフレ策
が重なって村は疲弊します。
そのテコ入れに政府は次の
手を打ちました。
・各村に置かれていた「戸
長」(江戸時代の名主)を
五百戸に一人とする
・互選を官選とする
当時の村は狭山村が九一、
芋窪村が八二戸で、他は五
十戸ほどでした。五百戸に
一人ではどうにかしなくて
はなりません。さらに、各
村単独ではどうにもならな
い学校建設の難問がありま
した。独立傾向の強い村人
達は苦労したようです。そ
こで考え出されたのが各村
が独立性を保ちながら、連
合して仕事をし、戸長を置
くことでした。「高木村他
五ケ村連合」を形成、その
戸長役場を高木村に置きま
した。
連合戸長役場跡
文 素っ頓狂
『それって何?』
『聞き慣れないからね。先
ず現地に行ってみよう』
高木神社と社務所の間に
白壁の蔵があります。良くも残されたりで、感激です。明治十七年のことです。当時、東大和の地域には、芋窪・蔵敷・奈良橋・高木・狭山・清水の独立した六つの村がありました。多摩湖に沈んだ地域と狭山丘陵の麓を生活の拠点として、玉川上水の近く、野火止用水際まで一面に畑が広がっていました。野火止用水が開削(一六五五年)されたことをきっかけに、村人達が必死に切り開いた新田のたまものです。丘陵の麓から南に向かって開墾をしたため、南北に細長い村となりました。村境はお互いに気を遣ったのか、後で開墾するほど権利意識と独立意識旺盛な村々でした。
新田は地味に劣り、村は豊かではありませんでした。そこへ明治初年のデフレ策が重なって村は疲弊します。そのテコ入れに政府は次の手を打ちました。
・各村に置かれていた「戸長」(江戸時代の名主)を五百戸に一人とする
・互選であったものを官選とする
当時の村は狭山村が九一、芋窪村が八二戸で、他は五十戸ほどでした。五百戸に一人ではどうにかしなくてはなりません。さらに、各村単独ではどうにもならない学校建設の難問がありました。独立傾向の強い村人達は苦労したようです。そこで考え出されたのが各村が独立性を保ちながら、連合して仕事をし、戸長を置くことでした。「高木村他五ケ村連合」を形成、その戸長役場を高木村に置きました。
木食上人の像 (もくじきしょうにん)
文 素っ頓狂
『東大和にも、木食上人が(もくじきしょうにん)
来られたんだって?』
『微笑の仏で有名な木喰行(ほほえみ)(もくじきぎょうどう)
道(明満)上人とは違うけ
ど、確かに足跡があるし、(そくせき)
石仏としてお守りされてい
る。』
高木の妙楽寺墓地に、向(みょうらくじぼち)
かい合う六地蔵尊がありま
す。その間に三体の石仏が
祀られ、中央に背の高い石
塔の上に座った大日如来様
が居られます。その右側の
高さ五十㌢ほどの座像が木(ざぞう)
食様です。地元では法如上(ほうにょ)
人と呼びます。
木食僧は、五穀(米、麦、(ごこく)
アワ、ヒエ、キビ)、時に
は十穀(五穀の他にトウモ
ロコシ、ソバ、大豆、小豆、
黒豆)を絶つことを戒律と(かいりつ)
して、全国を遍歴、修行し
たとされます。その木食僧
がなぜ、高木に祀られてい
るのでしょうか?
円乗院に次のような伝え(えんじょういん)
が残されています。
「文化六年(一八○九)
に、本堂と庫裡を再建した。(くり)
その時、山林の様々な材木
を伐採し、諸々の地を穢し、(ばっさい)(けがし)
虫類にも傷を負わせた。こ
の報恩のため木食法如をお(もくじきほうにょ)
よびして、十月十五日から
十七日までの二日三晩にわ
たって供養した。あわせて
天下の安全、五穀の豊作、
様々な難を除き、子孫の長
久などを願った。」
村人達の優しい心遣いが
伝わります。法如上人はそ
の後、さらに遊行を続け、
渋谷の室泉寺で亡くなり、(しつせんじ)
お墓も同寺にあります。
いぼ地蔵
文 素っ頓狂
『お地蔵様にはいろいろ御
利益があるけど、高木のい
ぼ地蔵様は、なぜイボなの
かしら?』
『まだ、医療が地域に普及
しない頃の素朴な生活の知
恵だろうね。
すぐそばに笠森稲荷様が(かさもりいなり)
あるだろう。疱瘡・できも(ほうそう)
の快癒の御利益で人気があ
った。』
いぼ地蔵尊は、今は妙楽(みょうらくじ)
寺墓地の入り口に祀られて
いますが、かっては、高木
交番の近くにたたずんでお
られました。
村山道と呼ばれた狭山丘
陵の麓を縫うように通る東
西の道と、東大和市駅付近
から北に向かって江戸街道
を越え、円乗院の前を通っ
て、杉本坂を登り宅部に入
る南北の古い道が交わる、
その角地です。
「頑固なイボもコロリとと(がんこ)
れる」と云うことから、狭
山丘陵周辺の多くの人々に
信仰されて、石畑~殿ヶ谷(いしばたけ)(とのがや)
~三ツ木~萩ノ尾~原山~(みつぎ)(はぎのお)
高木と順に回る「村山六地
蔵」の一つでした。瑞穂町、(みずほまち)
武蔵村山市、東大和市を一
巡することになります。
願いが叶ったら、お礼に
糸で繋いだ松かさを納める
とのしきたりができて、
「松っこごれ地蔵」とも呼
ばれました。いつからお祀
りされたのか年号は明らか
でありませんが、背の高い
地蔵尊の背には
毎日晨朝入諸定
入諸地獄令離苦
無仏世界度衆生
今世後世能引導
と延命地蔵菩薩経の偈が刻(げ)
まれていて、お祀りしたと
きの雰囲気を伝えます。
比翼塚 (ひよくづか)
文 素っ頓狂
『江戸から明治に移った時
高木村もスゴイ影響を受け
たんでしょうね?』
『うん、いろいろあるけど
激動に巻き込まれた幕臣の
話が胸に迫るよ。』
高木神社の東側、明楽寺(みょうらくじ)
墓地の北側に二つの碑が寄
り添うように祀られていま
す。過ぎた時代を無言で語
りかけてくるようです。明
治維新により徳川家は一大
名として静岡に本拠を移さ
れました。領地が激減した
ため幕臣の中には、江戸に
残って浪人として新たな途
を探る人が多く出ました。
名門南町奉行・遠山家でも
同じような境遇に出会った
のか、一門の宮嶋鉄右衛門
という武士が高木村に移住
してきました。奉公人の里
につてを求めたとされます。
当時は、高木神社の東側
に明楽寺というお寺があっ
て、その庫裡に奥さんの喜(くり)
与さんと住みました。初め
は寺子屋を開いて生活して
いました。やがて、名主制(みょうしゅ)
度が廃止され、明治六年、
村の役所・戸長役場が明楽(こちょうやくば)
寺に置かれる事になりまし
た。名を巌と改めた鉄右衛(いわお)
門氏はその手伝いをするこ
とになりました。しかし、
どうしたことか、八月に病
死したとされます。
残された喜与さんの心情
は思い遣られます。役場の
仕事を手伝っていたそうで
すが、夫の百ヵ日が過ぎた
日、自ら膝を紐でくくり、
短刀で命を絶ちました。冥
福を祈って人々は塚を築き
大小の碑を祀りました。東
大和のよもやまばなしは比
翼塚として語り継ぎます。
清戸街道 (きよとかいどう)
文 素っ頓狂
『高木神社の表参道ってな
ぜ、南からなの?』
『北の志木街道の方が交通
としては賑わっていただろ
うにね。』
『いや、江戸時代には違っ
ていたかも知れない。』
高木神社の表鳥居は南の
路に面しています。そのよ
うにした理由があったはず
です。この路は清戸街道と
呼ばれます。
今では、広域の交通路よ
りも、日常の生活道路にな
っています。清戸街道の名
も知られなくなりました。
しかし、古地図を辿ると、
清瀬市が清戸と呼ばれ近世(きよと)
の宿場として栄えている頃、
この路は清戸を経て新河岸(しんかし)
川への主要な交通路であっ
たことがわかります。
家康が江戸に幕府を開い
て江戸城、江戸市街の整備
を始めると、石灰が大量に
使われます。石灰は成木(なりき)
(青梅市)で焼かれ、江戸へ
と運ばれました。最初は馬
で現在の新青梅街道、次に、
桜街道を運びました。
やがて、正徳の頃(一七一
○年代)、 船で河川を使っ
て運ぶルートが出来ました。
中藤村(武蔵村山市)~奈良(なかとうむら)
橋村~現在の東村山市を通
って、清瀬~引又河岸(志木(ひきまたかし)
市)へのルートです。清水
の庚申神社の所には大きな(こうしんじんじゃ)
欅の木と井戸があって旅人(けやき)
達は憩いの場としたと伝え
られます。志木街道に比べ
ほとんど急な坂がない路で
す。この路が石灰を運んだ
道となったのかも知れませ
ん。奈良橋に志木街道と清
戸街道の分岐点があります。
清戸街道
文 素っ頓狂
『高木神社の表参道ってな
ぜ、南からなの?』
『北の志木街道の方が交通
としては賑わっていただろ
うにね。』
『いや、江戸時代には違っ
ていたかも知れない。』
歴史好きの仲間との議論が続きます。高木神社の表鳥居は南の路に面しています。そのようした何かがあったと思われます。この路は清戸街道と呼ばれます。
今では、広域の交通路ではなく、日常の生活道路になっています。清戸街道と呼ぶことも知られなくなりました。しかし、地図を辿ると、清瀬を経て新河岸川への主要な交通路であったことがわかります。家康が江戸に幕府を開いて江戸城、江戸市街の整備を始めると、石灰が大量に使われ、成木(青梅市)で焼かれた石灰が江戸へと運ばれます。最初は馬で現在の新青梅街道、次に、桜街道を運びました。
やがて、正徳の頃(一七一○年代)、船で河川を使って大量に運ぶように変わります。中藤村(武蔵村山市)~奈良橋村~現在の東村山市を通って、清瀬、引又河岸(志木市)へのルートです。清水の庚申神社の所には大きな欅の木とそのそばに井戸があって旅人達は憩いの場としたと伝えられます。ほとんど急な坂がない路です。ことによったら、この路が石灰を運んだ道であったのかも知れません。
嘉永七年のお地蔵様 (かえい)
文 素っ頓狂
『雲性寺の山門入って直ぐ
左のお地蔵様、素敵ね!』
『八体いらっしゃるけど、
どの仏様?』
『六地蔵様が好き。』
『うん、お姿もいいけど、
この仏様は特別なんだ。』
東大和市内には、石像の
六地蔵が一四組あります。
天保七(一八三六)年から明
治三十一(一八九六)年にか
けてつくられました。その
中で二番目に古いのがこの
六地蔵尊で、嘉永七年(一八
五四)と刻まれています。
前年、六月三日、日本中
をあっと驚かせる事件が起
こりました。アメリカのペ
リーが蒸気船の艦隊を引き
連れて浦賀に碇を下ろした (うらが)
のです。江戸市民は大騒ぎ
です。芋窪に避難してきた
との伝えもあります。幕府
をあげて対策が練られ、江
戸湾防備が叫ばれます。丁
度、この頃、羽田沖に台場(だいば)
をつくって大砲を備えて外
国船に当たるべしとの海防
策を唱える江川太郎左衛門
が東大和の村々をおさめる
代官でした。 (だいかん)
芋窪から中藤にかけて幕(いもくぼ)(なかとう)
府の御用林があり、九月に
は台場をつくる松材の切り
出しが村人達に命ぜられま
す。九月十二日、奈良橋村
の村人達は人足として切り
出しの仕事をします。
嘉永七年、関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)
から、「異国船来たるによ
り、狼藉者への備え用意す(ろうぜきもの)
べし」との達しが来て、ホ
ラ貝や竹槍を用意します。
このお地蔵様は新しい時
代の到来とその対応をつぶ
さにご覧になっていたので
した。
石川地頭の墓
文 素っ頓狂
『奈良橋には、地頭の墓が (じとう)
あるんだって?』
『家康が江戸に入ったほや
ほやに任命されて、奈良橋
に来た。江戸城までは馬で
通ったらしい。』
雲性寺の墓地の中にその
墓はあります。家康は一五
九〇年六月、八王子城が落
城して間もなく、秀吉から
関東に移ることを命ぜられ
ます。すると、早くも、翌
年五月、狭山丘陵周辺に直
属の家臣を配属してきまし
た。江戸に幕府を開く十三
年前です。江戸が未整備で
あったことと戦後の非常事
態への備えでしょう。
奈良橋に来たのは石川太
郎右衛門でした。家康の祖
父に仕えて以来の徳川譜代
の家臣です。初代は関ヶ原
の合戦で戦死しています。
奈良橋から出陣したのでし
ょうか? 一六二○年代ま
で家族と一緒に奈良橋に住
み、やがて江戸に移ります
が、一六五〇年代まで奈良
橋村の領主でした。地元で
は地頭と呼ばれ、神社・寺
の修繕や開墾を指導し、検
地をしています。
奈良橋村には約六五軒の
農家があって、貯水池に沈
んだ部分で田を耕し、丘陵
の斜面に畑をつくりました。
田は三畝以下、畑は四畝以
下が多く、生産性も低くて
下か下下の等級が付けられ
ていました。
そのため、農民は自立に
燃え、玉川上水(一六五三)、
野火止用水(一六五五)が開
かれると、一挙に原野を開
墾し、一六七四年には堀際
まで新田(畑)にしています。
狭山丘陵周辺では数少ない
地頭の墓です。
前回の疱瘡神の記事中
「享和二戌(一八○二)年
十二月」
の箇所が
「享和二戌(一八○二)年
二の次は十二月」
となっていました。お詫
びして訂正します。
富士塚
文 素っ頓狂
『東大和にも、富士塚があ(ふじづか)
るんだって?』
『八幡神社の本殿の奥、す
ぐ後の森に、塚が築かれて
いる。頂上に仙元神社の祠(せんげんじんじゃ)
があって、その手前に「南
無仙元大菩薩」の石碑が祀
られているよ。』
『本格的なんだ。でも、気
づかなかったわ・・。』
富士山を霊山として崇拝
する信仰は、東大和市周辺
では江戸時代に最盛期を迎
えます。誰もが富士山まで
行けないため、「講」をつ(こう)
くって代表者が登り、浅間(せんげん)
神社に参拝して、帰村後、
お札を配布していました。
やがて、自分たちで地元
に富士山のミニチュアを築
いてお参りするようになり
ました。所沢市の荒幡富士、(あらはたふじ)
東村山市の熊野神社の富士
塚、武蔵村山市の谷津の仙(やつ)
元様、立川市砂川(玉川沿
い)の金比羅様などがあり(こんぴらさま)
ます。
谷津の仙元様は現在も講
中が活動していて、文化三
年(一八〇六)には、東大和
市の貯水池に沈んだ石川の
人々が石造の手水鉢をお祝(ちょうずばち)
いに奉納しています。
八幡神社の仙元様の祠に
は、享和二(一八○二)年 (きょうわ)
別当 覚宝院と彫られてい(かくほういん)
ます。南無仙元大菩薩の石
碑には天保二年(一八三一)
奉開眼 東身録山 星之(あずまみろくさん)
(光)坊 願主 岸 勘助
とあり、修験と村の有力者
のもとに講が結成されてい
たことが考えられます。
「東身録山」にはいろいろ
なことが含まれ、今後の解
明が待たれます。
疱瘡神 (ほうそうがみ)
文 素っ頓狂
八幡神社の本殿に向かっ(はちまんじんじゃ)
て右側に大杉の根株が保存
されています。その左側に
鎖を巡らせて神域が画され
石の祠が祀られています。
疱瘡神で、現在もこのよ
うに祀られているのは東大
和市でただ一つです。右横
に「享和二戌(一八○二)年(きょうわ)二の次は(いぬ)
十二月」左横に「別当覚宝
院」と彫られています。
疱瘡は天然痘とも云われ、(てんねんとう)
非常に強い感染力を持ち、
江戸時代には多くの子供(時
には大人も)が死亡しまし
た。
安政五年(一八五六)には
コレラと重なって大流行し
ました。武蔵村山市に残る
日記では一月二十二日、○
○女疱瘡にて死、○○二男
疱瘡にて死、二月二十三日
湯流し、○○児死す、三月
二十三日、千度参り、五月
一日、観音経を読む、七月
二日、疱瘡棚、十月二十四(ほうそうだな)
日、疫邪送り、二十八日、(えきじゃおくり)
祈祷・・・など、治療と祈(きとう)
りと隣り合わせて死亡の状
況が記されています。
当時の村には、ほとんど
医者が居なかったこともあ
り、笹の葉を湯につけてお
祓いをしたり、祭壇の棚を(はらい)
設けてお祓いや祈祷をした
り、山口観音に千度参りを
したり、村人が揃って村は
ずれまで邪気を送り出した
りして、懸命な活動をして
います。
八幡神社の疱瘡神はその
予防と癒えと危機からの脱(い)
出を必至に願った神でした。
その仲立ちをしたのが、八
幡神社をお守りした「覚宝
院」(本山派の修験)であ
ることを伝えます。
狭山三十三観音第十八番
文 素っ頓狂
『狭山丘陵をぐるーっと回る
ように、観音霊場があるんだ
って?』
『うん、一番は山口観音(所沢
市山口)で、地図の上では右
回りに順に回るんだ。三十三
番は妙善院(所沢市三ヶ島)で(みょうぜんいん)
狭山丘陵を一巡する。
東大和市内では、その十五
番から十九番までの五箇所が
あって、第十八番が奈良橋の
雲性寺の境内にあるよ。』 (うんしょうじ)
お地蔵様と観音様は江戸時
代の村人達にとって、とりわ
け親しい存在であったようで
す。観音様には西国、板東、
秩父と有名な霊場があり、東
大和の地域を含むものとして
は「武蔵野」「狭山」の二つ
の霊場があります。観音様は
熱心に念ずると、三十三身に
変じて救って下さるとのこと
から、三十三箇所巡りの霊場
が設けられたとされます。
「狭山」の場合は、山口観音
の住職・亮盛と三ヶ島の妙善(りょうせい)
院の住職・万杲が中心になっ(まんごう)
て、江戸時代末に設けられた
ようです。(諸説あります)
かっては、東村山から東大
和に入って、清水の橋場の観(はしば)
音堂(十五・正観音)、貯水
池に沈んだ三光院(十六・千
手観音・移転前は村民持ち)、
狭山に出て霊性庵(十七・如
意輪観音・円乘院管理)、そ
して丘陵の麓を通って奈良橋
の雲性寺(十八・十一面観音)
、さらに芋窪の林堂(十九・如(はやしどう)
意輪観音)と白装束の巡礼姿
が見られたと伝えられます。
「狭山」の特長で、観音堂は
寺に属する以外は地域の人々
による浄財で維持・管理され
てきました。そのため、御朱
印は当番の家で頂く事になり
ます。
鬼の宿
文 素っ頓狂
『ねえ、ねえ、節分の夜、鬼(せつぶん)
を泊める「鬼の宿」があるん
だって?』
『東大和では奈良橋に、小平
市では小川町に、この二つし
か伝わらないけど、今も続い
ているとの事だよ。』
鬼は、節分の夜は困ってし
まいます。「福は内、鬼は外」
と豆をぶつけられて、追い出
されるのですから。「東大和
のよもやまばなし」はこう切
り出します。
『節分は鬼の厄日です。その(やくび)
鬼を「厄神さま」として迎え、
毎年宿をする家が奈良橋にあ
ります。・・・
節分の日には近所の家でま
だ豆まきが始まらないうちに
ご飯を炊きます。昔は箱膳に(はこぜん)
きちんと膳立をしたのですが、
今は小さい膳に御飯に箸を添
えて神棚に供えます。・・』
「鬼の宿」のお話です。こ
のお宅では、鬼が近寄らない
ように目刺しを門口に刺す事(めざし)
も、神棚に特別の御幣を飾る(ごへい)
事もしません。夜になって、
まわりの家から「福はうち、
鬼はそと」と豆まきの声が聞
こえても、豆はまきません。
小平市の場合は、鬼を迎え
る場所として、二十センチ四
方位の竹で作った「すのこ」
に「桟俵」をのせて神棚に飾(さんだわら)
り、赤飯、お神酒を供えて灯
明をあげるそうです。
そして、真夜中に赤飯をの
せた「すのこ」を家の近くの
角まで運んで大急ぎで振り返
らずに戻ってくるのだそうで
す。
現在の世相に黙って立ち向
かうようにも受け取れる風習
でが、根底に狭山丘陵周辺に
伝わる共通の要素がある事に
気づきます。それは、疫病の
祓いに、桟俵に幣束をさして(はら)(へいそく)
Y字型の三方の辻に納める。(さんぼうのつじ)
三方の辻には悪さをする「辻
しょうげ」がいるから、一目
散に駆け抜ける。困り切った
貧乏神が接待を受けて、二度
とこの家には入らないとの約
束の証文を書く・・などです。
奈良橋(二)
文 素っ頓狂
『奈良橋って五百年も前から(ならはし)
の地名なんだ!』
『きっちり、豊鹿島神社本殿
の創建棟札に書かれている』
『どうして、奈良橋なんだ?
市の名前が「東大和」だから
西の大和の奈良と関係がある
のかな?』
『直接には結びつかないだろ
うね。』
『じゃ、奈良川って川があっ
て橋があるところ・・・?』
『そういう川も橋も見あたら
ないね。奈良橋川は奈良橋の
地名からでた名前だと思う。』
『近所に、同じように「奈良」
が付くところがある? あれ
ば、そのハシ=端ってことも
あるジャン』
『???』
困ったことに、わが市を代
表する中世から続く地名なの
に、奈良橋の由来がはっきり
しません。府中市に「奈良橋
通り」、埼玉県小川町に「奈
良梨」の地名があります。こ
れらも参考に、どうにかして
解明したいものです。
江戸時代、玉川上水に引き
続いて野火止用水が開削(一
六五五年)されます。狭山丘
陵の麓に生活の場を築いた先
人達は、待っていたかのよう
に、時には先を争って、互い
の村先を切り開いて用水際ま
で開墾しました。掘り返した
赤土が赤風になって舞う中、
懸命につくりあげた武蔵野新
田(畑)です。その結果、図
のように、縦に細長い七つの
村ができあがりました。
東大和市駅周辺は八幡谷ッ(はちまんやつ)
と貯水池に沈んだ奈良橋の区
域の村人達が親村となって開
墾しました。そのため、各村
が合併して大和村になるまで、
独立した「奈良橋村」を形成
していました。
奈良橋(一)
文 素っ頓狂
『東大和市駅のところは奈良
橋村だったって・・・?』
『そんなに遠くない話だよ。
大正八年まで、そうだった。
それは南北の話だけれど、
東西では、中世には芋窪も奈(いもくぼ)
良橋って呼ばれていた。』
東大和市で最初の村は貯水
池の中と狭山丘陵の南麓にあ
りました。狭山丘陵がつくっ
た小さな谷からの湧き水を利
用して水田をつくり、畑を開
墾して生活を営んでいました。
その時期はいつ頃なのかは
はっきりしません。芋窪の豊
鹿島神社が七百七年に祀られ(ま)
たとの伝承があります。豊鹿
島神社の現在の本殿が造られ
たのは一四六六(文正元年)
であることが棟札から確認さ
れています。そこには「上奈(かみならはしごう)
良橋郷」と書かれています。
これからすると、中世には
芋窪から始まって相当広い範
囲が「奈良橋」と呼ばれてい
たことが考えられます。
貯水池の中では内堀に「御(ごりょうじんじゃ)
霊神社」があり、十一世紀に
祀られたと伝えられます。次
いで、下堰堤の付近に氷川神(しもえんてい)
社と三光院が祀られ、千三百(さんこういん)
年代の記録がありますが、地
域の呼び名は「宅部郷」でし(やけべごう)
た。
こうしてみると、まだ集落
が自然発生的な状況にあり
「石川」とか「北河内」とか
「後ヶ谷」とかに点在してい(うしろがや)
た頃は、東大和市域には広く
「奈良橋」と「宅部」の呼び
名があったことがわかります。
これに、村の名前が付き東
大和市駅周辺までが「奈良橋
村」になるのは江戸時代に入
ってからです。(つづく)
奈良橋庚申塚の庚申塔
文 素っ頓狂
『一番最初の青梅街道は、庚
申塚の所を通っていたって、
本当・・・?』
『地元で、江戸街道って呼ん
でいる通り、江戸への最初の
道だった。』
江戸城整備のため、青梅か
ら江戸へ石灰を運んだ道を
「青梅街道」と呼びます。
「御用」と書かれた旗を立て
て、石灰は野中の一本道を馬
に引かれて運ばれました。箱
根ヶ崎、村山から、奈良橋の
庚申塚を通って、東京街道団
地の北側を進み、東村山市の
九道の辻を経て、田無(西東
京市)の橋場に出ました。水
も休み場もなく、難儀をした
ようです。
これに目を付けて、やがて、
小川村(小平市)に中継場が設
けられて、ルートは変わり、
青梅橋(東大和市駅付近)を通
るようになりました。それま
での最初の道は、現在の新青
梅街道の元になった江戸街道
でした。
家康は手回しが良くて、天
正十八年(一五九○)八王子城
を落とすと、翌年、早くも、
芋窪村と高木村に直属の部下
を地頭として配属して来ます。
江戸の整備が出来ていないた
め地頭は芋窪に住んで、江戸
城へは従者を従えて、馬に乗
って、江戸街道を「通勤」し
たとされます。石灰が運ばれ
たのは、それ以後でした。
奈良橋の庚申塚はこの道の
目印となったもので、安全を
祈った村の人々が庚申塔や馬
頭観音を祀りました。今では、
塚の跡はすっかりなくなり(交
番になっている)、祀られて
いた庚申塔や馬頭観音は奈良
橋の雲性寺に移されました。
その庚申塔に「東 江戸道」
と刻まれています。
湖底に沈んだ「内堀」 うちぼり
文 素っ頓狂
『東大和市に「内堀」って村
があったんだって?』
『記録の上では「宅部村」だ やけべむら
けど、村人達にとってはあく
まで「内堀村」だったのだろ
うね・・・。』
かって、八幡神社東側の道
を貯水池地内に入り、そのま
ま下ると、中央に流れる石川
を挟んで水田が広がり、その
集落がありました。戸数二十
八戸(明治初期)、阿弥陀堂
を持ち、御霊明神を祀ってい ごりょうみょうじん
ました。東大和市に中世の時
代の名残を残すものは少ない
のですが、この地域には話題
が残されています。
御霊明神はあの有名な鎌倉
権五郎景政を祭神とします。 ごんごろうかげまさ
後三年の役(一〇八三~八七
年)に従軍した景政が、右目
を射られながらも奮闘し、陣
に帰って、従兄の三浦為次に
抜いてもらおうとした時、余
りにも深く突き刺さっている
ので、為次が景政の額を土足
で踏んで抜こうとしたら、烈
火の如く怒って、武者の恥と
ばかり斬りつけたという逸話
(奥州後三年記)を残す武将
です。頼朝が入る前の相模地
方を開拓し、鎌倉の御霊神社
に祀られました。その部下の
寺島小重郎の一族が内堀の御
霊明神を祀ったとされます。
また、村山貯水池に沈んだ
地域から、現在までに発見さ
れている板碑で最も古いのが いたび
徳治三(一三〇八)年二月銘
を持つもので、それが、内堀
から出土しています。
奈良橋の庚申塚墓地に馬頭 こうしんづかぼち
観音と二体の地蔵尊が遷され うつ
ています。そこには、村人達
の意思の表明でしょう、明確
に「内堀村」と彫られていま
す。内堀村を伝える唯一の証 あかし
です。御霊明神は狭山神社に さやまじんじゃ ごうし
合祀されています。
湖底に沈んだ「内堀」 うちぼり
文 素っ頓狂
『東大和市に「内堀」って村
があったんだって?』
『記録の上では「宅部村」だ やけべむら
けど、村人達にとっては「内
堀村」だったのだろう。一峰
越えた山口の古老が、今でも
内堀からの道と云っている』
かって、八幡神社東側の道
を貯水池地内に入り、そのま
ま下ると、中央に流れる石川
を挟んで水田が広がり、その
集落がありました。戸数二十
八戸(明治初期)、阿弥陀堂
を持ち、御霊明神を祀ってい ごりょうみょうじん
ました。東大和市に中世の時
代の名残を残すものは少ない
のですが、この地域には話題
が残されています。
御霊明神はあの有名な鎌倉
権五郎景政を祭神とします。 ごんごろうかげまさ
後三年の役(一〇八三~八七
年)に従軍した景政が、右目
を射られながらも奮闘し、陣
に帰って、従兄の三浦為次に
抜いてもらおうとした時、余
りにも深く突き刺さっている
ので、為次が景政の額を土足
で踏んで抜こうとしたら、烈
火の如く怒って、武者の恥と
ばかり斬りつけたという逸話
(奥州後三年記)を残す武将
です。頼朝が入る前の相模地
方を開拓し、鎌倉の御霊神社
に祀られました。その部下の
寺島小重郎の一族が内堀の御
霊明神を祀ったとされます。
また、貯水池に沈んだ地域 村山貯水池に沈んだ地域から、現在までに
から発見されている板碑で最 いたび
も古いのが徳治三(一三〇八)
年二月銘を持つもので、それ
が内堀から出土しています。
奈良橋の庚申墓地に馬頭観 こうしんぼち ばとうかんのん
音と二体の地蔵尊が遷されて うつ
います。そこには、村人達の
意思の表明でしょう、明確に
「内堀村」と彫られています。
内堀村を伝える唯一の証です。あかし
御霊明神は狭山神社に合祀 さやまじんじゃ ごうし
されています。
鎌倉街道
文 素っ頓狂
『東大和にも鎌倉街道がある
んだって・・・?
それに、新田義貞が鎌倉攻 にったよしさだ
めの時、お粥を炊いた池があ
るって、ほんと?』
『うん、地元の人が、そう言
い伝えて来た道が確かにある
よ。池は貯水池に沈んでしま
ったけれど、伝承は大事にし
たいね。』
八幡神社の東側を通る道を
地元の方々は鎌倉街道と伝え
ます。頼朝の時代、武蔵と鎌 むさし
倉を結ぶ基幹となる道の一つ
である上道(現在の府中街道)かみつみち
に繋がる道です。国土地理院
の明治十四年測量地図でたど
れます。北は現在の貯水池に
沈んだ内堀(上宅部)集落と うちぼり
の境を通って、所沢市の山口
(山口観音、中氷川神社、山 なかひかわじんじゃ
口城跡)から小手指(小手指 こてさし
ヶ原古戦場、白旗塚)に抜け
ています。埼玉県側では、こ
の道を「鎌倉街道上道」の分
岐道として位置づけています。
元弘三(一三三三)年五月
新田義貞が上野国・生品明神 いくしなみょうじん
(群馬県太田市)で旗揚げを
して、一路、鎌倉を目指して
南下します。太平記では、五 たいへいき
月十一日から十二日にかけて
小手指ヶ原、久米川で鎌倉幕
府軍と合戦をします。
その時、義貞が内堀にあっ
た「こさいけ」付近に陣を敷
き池の水でお粥を炊いて軍勢
に食べさせたとする伝承が東
大和市に残されています。
「こさいけ」は今は貯水池
に沈んでしまい、残念ながら
南側の道が候補となるものは
伝えられますが、どこで結び
つくのかはっきりしません。
しかし、幻の中世の数少ない
手がかりを与えてくれる貴重
な道です。
太子堂 (たいしどう)
文 素っ頓狂
『聖徳太子を祀ったの?』
『そう、余程、学問を重視し
たか、それとも、職人の集ま
りでもあったのか・・・』
青梅街道を奈良橋交差点か
ら西に向かって、村山橋西側
の信号機のある交差点を狭山
丘陵の方に入ります。道なり
に五○メートルほど進むと、
左側にお地蔵様といくつかの
碑が目につきます。その広い
敷地の奥に建てられているの
が太子堂です。
堂の中には、蔵敷の人々に
よって聖徳太子像と阿弥陀様(あみださま)
が祀られています。いつ建て
られたのかは不明ですが、文
化四年(一八○四)に蔵敷村(ぞうしきむら)
中で、太子堂を普請した記録
があります。これから推測す
ると、この地域に、江戸時代
の後期に、聖徳太子の徳と学
問を慕った信仰があったか、
太子が建築に優れた業績を残
したことから、建設関係の職
人集団に太子信仰が厚いこと
があり、それに関係する人々
がお祀りしたものとも考えら
れます。
当時の東大和市周辺の村々
(武蔵村山、立川、小平、清
瀬市、瑞穂町)にはどこにも(みずほまち)
なく、唯一、蔵敷村に建てら
れた堂です。
地域の教育熱心さと、学問
の伝統も重視され、江戸時代
に、石原伴鳳という学者が招(いしはらばんぽう)
かれて、寺子屋が開かれまし
た。明治五年(一八七二)に
各地に学校が創られますが、
その時、早々と「汎衆学舎」(はんしゅうがくしゃ)
の名で、蔵敷村の学校として
名乗りを上げました。村人た
ちが、その運営費を捻出する
ため、夜なべに、わらじを作
ったり、糸つむぎをしたとの
言い伝えが残ります。
おしゃぶき様
文 素っ頓狂
『それって、神様?』
『そうなんだ、蔵敷の青梅街
道・村山橋のたもとにいらっ
しゃるんだ。』
江戸時代には、この辺りに
はお医者様が居ませんでした。
カゼはもちろん、百日咳やジ(ひゃくにちぜき)
フテリアなどにかかると、村
の人達は修験に祈祷を頼んだ(しゅげん)(きとう)
り、お地蔵様や観音様にお参
りしていました。そのような
時に「霊験がある」との評判
から、病気を直してもらう願
いを込めて、若い親やお年寄
りから人気を集めたのがおし
ゃぶき様です。「東大和のよ
もやまばなし」には、次のよ
うに採録されています。
『祈願して病気が治ると、
お礼におしゃもじを供えます。
願かけをする人はこのおしゃ
もじを借りてきて、これでご
飯をすくって食べさせるとた
ちどころに病気が治るといい
ます。
すっかり良くなると、お礼
に、借りたおしゃもじの他に
新しいものとお賽銭を添えて(さいせん)
供えます。(一部省略)
九月には祭礼も行われ、露
店が並び、十軒位の組合で寄
付を集めて神楽を招き、テク(かぐら)
レンテクレンと賑やかでした
が、もう五十数年やっていな
いそうです。(後略)』
おしゃもじではなくて、小
さなお地蔵様を借りて、念願
が叶うと新しいお地蔵様を添
えてお礼のお参りをするのが
東村山市正福寺の千体地蔵で(しょうふくじ)
す。村山街道に沿ってこのよ
うな伝統があったようです。
元村山橋 (もとむらやまばし)
文 素っ頓狂
『蔵敷には江戸時代からの道
が残っているんだって?』
『記念すべきところがあるん
だ・・・。』
第九小学校の校門の前の道
を庚申塚を経て狭山丘陵の方
に向かいます。奈良橋川が大
きく蛇行して、橋があります。
これが江戸時代の道筋にかけ
られた「元村山橋」です。橋
の手前を右に行けば、古道が
銀杏通りまで続きます。丘陵(いちょう)
に向かへば十字路、信号機が
つく現代の青梅街道です。
江戸時代、古い道はここで
左と直進に分かれていました。
左への道は古道を拡げて、青
梅街道になり、武蔵村山市方
面へ向かいます。右は古道を
取り込みながら新しくつくら
れ東村山市方面に向かいます。
古い道は、交差点を直進し
て、丘陵の麓を郷土博物館へ
と続きます。欅の大木に覆わ
れ、お地蔵様が見守ります。
かって、狭山丘陵の南麓は
石畑や中藤、蔵敷、野口村な(いしばたけ)
どの村々が連なり、武蔵村山
市や東村山市など「村山」の
つく名はなく、一帯が村山と
呼ばれていました。その村々
を縫うように連絡していたの
が「村山道」でした。
村人達の日常生活圏は元村
山橋の付近までで、その南は
「原」=武蔵野を新田開発し
た一面の畑でした。
大正八年、この村山道を突
っ切って「青梅街道」がつく
られました。橋の名前が問題
になりました。地元の人々は
ガンとして「村山」を主張し
て、新道には「村山橋」、村
山道には「元村山橋」とする
ことで折り合いました。歴史
の分岐点でもあります。
敵討ち (かたきうち)
文 素っ頓狂
『蔵敷村で敵討ちがあったん(ぞうしきむら)
だって?』
『江戸時代末、前回の調練場(ちょうれんば)
の近くに、山王様があって、
その前と云われている。』
天保九年(一八三八)九月(てんぽう)
十七日のことです。相手はわ
かりませんが、討ったのは肥(ひごのくに)
後国(熊本県)の丈助という
人でした。当時のしきたりな
のでしょうか、丈助氏は相手
の霊を弔う「妙典供養塔」を(みょうてんくようとう)
建てて供養しています。その
塔が塚前墓地に移されて残っ
ています。銘に「助刀立合」
と刻まれているので、助太刀
を得たことがわかります。
天保七年から九年にかけて
は、凶作が続き、米の値段が
あがって、村々に盗賊や追剥(おいはぎ)
などが出て、物騒な空気が漂
っていました。
八年六月一九日には、桃の
実ほどの雹が降り、東大和の(ひょう)
村々では、作物が全滅するほ
どの害を受けました。
同年六月二十八日には、ア
メリカのモリソン号が浦賀に
現われました。浦賀奉行がこ
れを砲撃して、モリソン号事
件が発生しました。
九年一月四日には向台(武
蔵村山市・空堀川南)で、行
き倒れ人があり、春からは流(はやりやまい)
行病が不安をかき立てていま
した。幕府の財政にも影響が
見られ、六月、年貢取り立て
日を早めて、十五日を十日に
すると申し渡されます。
十二月、東大和の村々をお
さめていた代官・江川英竜が(えがわひでたつ)
対外防備のため、江戸湾・備(そなえば)
場の巡視役に選ばれます。
内外共に急迫を告げ、騒が
しい中で、敵討ちが行われま
した。村人達はどのように接
したのでしょうか。
農兵調練場 (のうへいちょうれんば)
文 素っ頓狂
『幕末、ペリーの黒船が江戸
湾に姿を現してさ、尊皇攘夷(そんのうじょうい)
か開国か、風雲急を告げた時
東大和にも大きな動きがあっ
たんだって?』
『うん、蔵敷で云えば、やっ
ぱり「農兵」かな。』
蔵敷庚申塚から、第九小学
校の東側の道路を南に向かっ
て進みます。三本杉と呼ばれ
る大きな杉の木があります。
この南側一帯に「農兵の調練
場」が設けられました。
ペーリが現れた嘉永六年( (かえい)
一八五三)には、東大和の村
々は竹槍を用意して、街道を
守るように命じらました。十
年後の文久三年(一八六三)、
状況が変わって、今度は、農
民が鉄砲を持って治安に当た
ることになりました。長州藩
がオランダ軍艦を砲撃する一
方で、生麦事件の解決を迫る(なまむぎじけん)
イギリスが薩摩藩を攻撃する(さつまはん)
など、国際的緊張が高まり、
京都では、志士たちの熱気が(しし)
膨張し、多摩では、新撰組が(しんせんぐみ)
編成された年です。
農民が武装するなど、とう
てい考えられない世の中でし
た。余程、切迫していたので
しょう、先ず、東大和市から
所沢を含む一帯から、名主や(みょうしゅ)
組頭など村の実力者の次男坊(くみがしら)
などが農民兵士として選ばれ
ました。鉄砲を貸与され、洋
風の兵事訓練をしました。そ
の場所が「調練所」です。
幕府は、農兵を大阪や江戸
湾に送ろうとしますが、地元
の実力者はそれは約束違反と
して応じません。こうして実
際に対外戦に出動することは
ありませんでしたが、農民一(のうみんいっき)
揆の抑圧には出動しました。
農民と農民だけに、複雑な心
境だったでしょう。
蔵敷庚申塚 (ぞうしきこうしんづか)
文 素っ頓狂
『奈良橋の庚申塚は大きな
交差点になっていて、すぐ
わかるけど、蔵敷にも庚申
塚があるんだって?』
『庚申塚として形に残って
見られるのは、ここだけで
スゴく貴重だよ。』
第九小学校の東側の道路
を狭山丘陵の方向に進むと
古い道が鋭角に交差してい(えいかく)
ます。その角にあるのが蔵
敷の庚申塚です。
かっては、原の中に独立
してこんもりと盛り上がっ
た塚になっていて、江戸時
代の村人達が、日常の生活
圏と原野とを画する場とし(かく)
て、庚申塔を祀っていた姿(ま)
をよく伝えていました。
現在の塚の上には四つの
碑があります。左から、湯(ゆどのさんだいごんげんひ)
殿山大権現碑(天明二年・
一七八二)、馬頭観音供養(ばとうかんのんくようとう)
塔(文政八年・一八二五)、
庚申供養塔(明和元年・一(こうしんくようとう)
七六四)、西国・坂東・秩
父百箇所霊場巡拝供養塔
(明治二八年・一八九五)
です。その他、入り口近く
に、道しるべを刻んだ小さ
な塔片があります。
庚申塔は右側に蔵敷の村
人達が総出で建立したこと
を彫り込んでいます。
この年は中山道・日光道
中で、幕府の人足集めに対
する大きな騒動が起こり、(そうどう)
一方では、小川村(現在の(おがわむら)
小平市)の記録に、「奉公
人が贅沢になり、高足駄、(たかあしだ)
せったをはき、雨天の場合
に傘をさすような行いがあ
るので、厳重に取り締まれ」
と残されているように、村
が大きく変動する時でした。
蔵敷村の人々がどのような
願いを込めて庚申塔を祀っ
たのか偲ばれます。
高札場 (こうさつば)
文 素っ頓狂
『バス停・蔵敷の前に、史
跡蔵敷高札場って云う碑が
あるでしょう。あれって、
昔のお知らせ場?』
『そうだけど、やっちゃい
けないこと=禁制や、きま(きんせい)
りごと=法度を示したから(はっと)
むしろ、命令場かな。』
『随分、性格が違うじゃな
い!!』
『そこが、江戸時代の面白
いところさ。』
江戸時代、東大和市域に
は、芋久保(窪)村、蔵敷
村、奈良橋村、高木村、後(うしろがやむら)
ヶ谷村、宅部村、清水村の(やけべむら)
それぞれ独立した村があっ
て、各村に高札場が設けら
れていました。現在、残さ
れているのは、この蔵敷村
の高札場だけです。最初は
もっと東側の大井戸と呼ば
れるところにあったのです
が、いつの頃か、現在の場
所に移されました。
五倫の道を正しく、身寄
りのない者や病人をあわれ
むこと、殺人、放火、盗賊
のような悪業をしてはいけ
ない、徒党を組んだり強訴(ごうそ)
や逃散をしてはいけない、(ちょうさん)
邪宗門、キリシタンは禁制(じゃしゅうもん)
などと書かれた木の板が掲
げられました。
明治維新の時です。これ
までの高札は取り除かれる
ことになりました。「万機
公論に決すべし」との御一
新です、どのような道が示
されるのかと期待をこめた
はずですが、何と、掲げら
れたのは、上に書いたもの
とほぼ同じ内容でした。さ
すがに、キリシタン禁制は
外国からの抗議と笑いもの
になり、間もなく撤去され
ました。
高札場の奥の内野家が
蔵敷村の名主で、自由民権
運動の指導者になった方で、
この書き換えはさぞ馬鹿馬
鹿しく、ご苦労されたこと
でしょう。
高札の現物のいくつかが、
東大和市郷土博物館に展示
されています。
槌頭と台場の松 (つちんど だいば)
文 素っ頓狂
『東大和市の一番西のはず
れに、面白い話があるんだ
って?』
『槌頭かな・・? それと(つちんど)
も、お台場の松かな?』
貯水池に沈んだ、多摩湖
三丁目、地図の上では、武
蔵村山市と所沢市に囲まれ
ている三角地は、石川の源
流で、槌が窪と呼ばれてい(つちがくぼ)
ました。人家もなく、大き
な沼の周りに松や柏が鬱蒼(かしわ)(うっそう)
と生い茂って、猿や狐、狸(きつね)(たぬき)
などが棲んでいました。そ(す)
の沼の主が槌のような頭を(ぬし)(つち)
した大蛇でした。動いた跡
は、草がなぎ倒されたよう
で、飲み込まれてはいけな
いと、子供たちは遊びに行
くことを禁じられていまし
た。元禄の頃です、この松(げんろく)
の木が伐られて、沼は小さ(き)
くなり、槌頭はどこかへ姿(つちんど)
を隠してしました。東大和(かく)
市にのこる唯一の大蛇伝承
です。
さて、この話に出てくる
ように、この辺り一帯は、
幕府の管理する松林(御料
林)でした。丘陵の南側で
は中藤村(武蔵村山市)に(なかとうむら)
接し、その地域では幕末ま
で松林として維持されてい
ました。嘉永六年(一八五(かえい)
三)、ペリーが黒船を率い(くろふね)
て江戸湾に現れました。上
を下への大騒ぎ、ともかく
江戸湾の防備に台場をつく(だいば)
って大砲を備えることにな
りました。いち早く、この
松を杭木に使うから、と伐(くいぎ)(き)
り出し命令が来ました。中
藤村や芋窪村周辺の村人達
が動員されて、せっせと伐
り出し、多摩川まで運んで
現在も残る品川沖の台場が
つくられました。
慶性門 (けいしょうもん)
文 素っ頓狂
『多摩湖の中央の堤防を渡
りきって、西武球場の方に
向かうと、すぐ左側の小高
いところに立派な門がある
じゃない。あそこ、東大和
市なんだって?』
『慶性門だろう。貯水池に
沈んだ石川(芋窪)にあっ
たお寺・慶性院の門を移設
復元したんだ。』
この門は文久元年(一八
六一)十一月に再建されま
した。慶性院の配置図を見
ますと、現在残された門の
右横に、さらに控えの間を
持つ長屋門形式であったこ(ながやもんけいしき)
とがわかります。門のすぐ
左側に池があり、正面に本
堂・庫裡があった様子が偲
ばれます。東大和市の一番
西に位置し、武蔵村山市中
藤の真福寺と本末の深い関(しんぷくじ)
係を持っていました。
慶性院の創建年代は、慶
長年間、または、天文年間
と諸説あります。名前の慶
性は慶長からとったとされ
ます。当初、薬師如来を本
尊としていましたが、現在
は不動明王で、胎内に小さ
なお不動様が納められてい
ます。その製作年代が室町
末期から江戸初期とされま
す。いずれにしても、家康
が江戸に入る前から、石川
の谷の奥に祈りの場をもち
幕末にはどっしりとした門
構えで、芋久保村の人々の
信仰のより所となっていた
ことは確かです。東大和市
に残された当時の門として
は唯一のものです。
湖底の自由民権
蓮花寺と「衆楽会」 (れんげじ)(しゅうらくかい)
文 素っ頓狂
『東大和で自由民権運動の
勉強会が最初に開かれたの
は蓮花寺だって?』
『そう、「衆楽会」って云
う学習会で、貯水池建設前
石川の谷にあった蓮花寺で
産声を上げたんだ。』
『藤兵衛さんの通った道を
下った所でしょ。何を勉強
したの?』
明治新政府は発足したも
のの、まだ、国会もないし
憲法も定まっていない明治
七年から八年にかけてのこ
とです。板垣退助や後藤象
二郎などの呼びかけによっ
て、現在の国会にあたる民
撰議院の開設、憲法制定な
どを求めて、自由民権運動
がおこりました。
東大和の人々はこの新し
い時代の空気をいち早くつ
かみ明治十一年(一八七八)
一月、狭山丘陵の尾根を超
えて蓮花寺に集いました。
「広く会議を興し、万機公
論に決する」誓文の実現を(せいもん)
期して「郷党の学士、自治(ごうとう)
の道を知らんと欲し」切磋(せっさ)
琢磨し、文を講し、書を評(たくま)
し、詩歌を詠するため、月
一回~二回集ろうではない
かと高々と宣言します。
この「衆楽会」が現在の
ところ、三多摩で最初の学
習結社とされます。以後こ
の胎動がうねりのように広
がります。五日市憲法草案
起草者として名高い千葉卓
三郎が奈良橋村に逗留しま
した。明治十三年から十四
年にかけては民権結社「自
治改進党」への参画があり、
十四年には、芋久保村、蔵
敷村、奈良橋村、高木村で
相次いで自由民権演説会が
開かれることになります。
湖底の自由民権
蓮花寺と「衆楽会」 (れんげじ)(しゅうらくかい)
文 素っ頓狂
『東大和で自由民権運動の
勉強会が最初に開かれたの
は蓮花寺だって?』
『そう、「衆楽会」って云
う学習会で、貯水池建設前
石川の谷にあった蓮花寺で
産声を上げたんだ。』
『藤兵衛さんの通った道を
下った所でしょ。何を勉強
したの?』
明治新政府は発足したも
のの、まだ、国会もないし
憲法も定まっていない明治
七年から八年にかけてのこ
とです。板垣退助や後藤象
二郎などの呼びかけによっ
て、現在の国会にあたる民
撰議院の開設、憲法制定な
どを求めて、自由民権運動
がおこりました。
明治十年代、三多摩にこ
れらの動きが伝わります。
東大和の人々はこの新しい
時代の空気をいち早くつか
み、明治十一年(一八七八)
一月、狭山丘陵の尾根を超
えて蓮花寺に集いました。
「広く会議を興し、万機公
論に決する」誓文の実現を(せいもん)
期して「郷党の学士、自治(ごうとう)
の道を知らんと欲し」切磋(せっさ)
琢磨し、文を講し、書を評(たくま)
し、詩歌を詠するため、月
一回~二回集ろうではない
かと高々と宣言します。
この「衆楽会」が現在の
ところ、三多摩で最初の学
習結社とされます。以後こ
の胎動がうねりのように広
がり、五日市憲法草案起草
者として名高い千葉卓三郎
が奈良橋村に逗留し、芋久
保村、蔵敷村、奈良橋村、
高木村と相次いで自由民権
演説会が持たれることにな
ります。
藤兵衛さんと狼 (とうべえ)
文 素っ頓狂
『芋窪には、どんな昔話が
伝わっているの?』
『沢山あるけど、笠松坂の(かさまつざか)
話がいいかな。』
芋窪の一番西側で、武蔵
村山市と境を接する小径を(こみち)
貯水池の方に登ります。周
囲道路にぶつかるところが
峠のようになっていて、右
側の小高い丘に、道しるべ
の役をして下さるお地蔵さ
んが祀られています。貯水
池に沈んだ石川の集落と丘
陵の南側の集落をつなぐ笠
松坂です。
周囲道路の金網越しにか
っての小径が続いているの
が見られます。ここを石川
に住む、木こりの藤兵衛さ
んが毎日、通りました。あ
る朝、狼に出会いました。
大きな口をあけて苦しそう
に首を振っています。捨て
場の肉を食べて、喉に骨が
刺さっているのでした。藤
兵衛さんはこわごわ近寄っ
て骨をとってやりました。
仕事を終えて、夕方、笠松
坂まで帰ってくると、その
狼が待っていて、家までつ
いてきます。翌日の朝も待
っています。藤兵衛さんは
「もう、明日からは、こな
いでいいよ」と諭すように
云うと、翌日からは姿を見
せなくなりました。
藤兵衛さんは狼が御嶽神(みたけ)
社のお使いで、大口真神と(おおぐちまがみ)
いわれていることを思い、
小さなお宮を造ってお祀り(つく)(まつ)
しました。貯水池の建設と
ともに、お宮は丘陵の南の
原に遷りました。住吉神社(うつ)(すみよし)
の境内、鳥居をくぐった正
面が天王様で、その隣に今(てんのう)
も、お祀りされています。
蔵敷高札場跡
文 素っ頓狂
『高札場ってさ、昔のお知
らせ場?』
『やっちゃいけないこと
(禁制)や、きまりごと
(法度)を示したから、命
令場かな。』
幕府が庶民に対し、禁制や法度(はっと)等を示したものです。現在あるものは江戸時代の姿を復原したもので、お上のご威光そのままに人々を見おろすように高札が掲げられています
芋窪街道(二) (いもくぼかいどう)
文 素っ頓狂
『芋窪街道は神様も通って
いらしゃったんだ!』
『そうなんですよ。』
昭和第一学園高校(立川
市)の隣、長く続く参道の(さんどう)
奥に『愛宕神社』が鎮座し(あたごじんじゃ)(ちんざ)
ます。この近くを新田開発(しんでんかいはつ)
した人々が故郷の芋久保村(いもくぼむら)
からお迎えした神社です。
新田村の生活は血のにじ
む厳しいものでした。黒土
が少ない中での畑作です。
天候に大きく支配され、肥
料がたいへんでした。原の
茅や狭山丘陵の木々の落ち(かや)
葉を有機肥料としました。
しかし、生産量を上げるた
め、干鰯(いわしのほした(ほしか)
もの)や糠を買い入れて、(ぬか)
土を肥やさなくてはなりま(こ)
せんでした。
代金は、生産物で精算さ
れました。自給自足が原則
でありながら、貨幣経済に
巻き込まれ、肥料代が借金
になることもありました。
乳幼児の死亡率がとても
高く、乳飲み子の無事が真
剣に祈られました。天候や
肥料の値段、子供の健康が
村の存続につながりました。
高橋源一郎氏は「元文四
年(一七三九)調査の草分(くさわけ)
百姓は芋久保新田だけで十
九戸あり、内、潰家が四戸(つぶれや)
あつた。」(武蔵野歴史地
理)としています。
新田開発に命をかける一
方で挫折が隣り合わせにあ(ざせつ)
り、人々は心をこめて、親
村=芋久保村の「愛宕様」(あたごさま)
を勧請してお祀りしたので(かんじょう)(まつ)
した。本社は、今も、豊鹿
島神社に境内社として祀ら(けいだいしゃ)
れています。芋窪街道はこ
の血と汗と祈りがしみこん
だ道です。
芋窪街道(一) (いもくぼかいどう)
文 素っ頓狂
『まだ、そんなのが東大和
にあるんだ・・・?』
『冗談じゃないよ。よくも
無事に残った、と関心して
んだ・・・。』
『だって、あんまりにも、
古くさいジャン・・・。』
最新式のモノレールが走
る道、チグハグに思うのも
無理はありません。前回の
鹿島様の要石の前を通って、
新青梅街道を横切るとモノ
レールが走り、途中で別れ
て直進し、立川市の栄町に
達する道です。先人達の焼
け付くような情熱と労苦の
固まりが道となっています。
到達点の立川市栄町周辺
は、曠野を芋久保村の人々(こうや)
が新田開発をして、新しく(しんでんかいはつ)
つくり出したところです。
享保十五年(一七三○)(きょうほう)
芋久保村(当時はこのよう(いもくぼむら)
に書いた)の名主・平左衛
門が玉川上水の水を分けて
もらって、新田を開発した
いとの願いを出しました。
水も不自由、木陰もない
中を芋久保村から、毎日、
毎日、開墾に通いました。
当時の武蔵野は草原に「柴」
(背が低い細い木)が生え
ていたと考えられています。
その根を切っての開墾は、
赤土の掘り起こしです。た
ちまち赤っ風が舞い上がり
ます。隣の高木新田の例で(たかぎしんでん)
は、風の強い日は、弁当を
あけることもできず、柴に
しがみついて過ごしたと語
られます。肥料も遠い道を
運びます。みんなで助け合
って、ようやく「芋窪新田」
がまとまりました。その新
田と親村・芋久保村が結び(おやむら)
ついた命の道です。
(次に続きます)
鹿島様の要石 (かなめいし)
文 素っ頓狂
『一匹なら一人、二匹なら
二人、三匹なら・・・』
『何? それ・・』
『要石の虫占いさ』 (むしうらない)
モノレールの通る道を北
に向かいます。上北台駅近
くから左に折れる道(芋窪
街道)を進み、そのまま新
青梅街道を横断してさらに
狭山丘陵に向かって進みま
す。やがて右側に蓮花寺が(れんげじ)
あります。その手前です。
杉林の中に、鳥居が見え、
その奥に小さな社が祀られ(やしろ)(まつ)
ています。注意して社の下
に目をやると、山の先端を
思わせるような存在感を持
つ石があります。
外見はそんなに大きくな
いため、かって、耕作の邪
魔になるからと村人達が集
まって掘り出すことに相談
がまとまりました。ところ
が、掘っても掘っても底に
達せず、逆に、段々と大き
くなるばかりでした。そこ
で、これは、鹿島様の要石
に違いないと、村人達は掘
り出すのを止めました。
それからです。石の廻り
を掘って虫が出てくると、
その数が自分たちに授かる
子供の人数、死んだ虫だと
良くないことがある。『ど
うか、健康な虫よ出てきて
よ』と一生懸命な祈りと御
利益を込めた虫占いの言い
伝えが生まれました。
また、昔々の大昔のこと
ですが、この一帯は海でし
た。そこへ豊鹿島神社の祭
神である建御雷命が通りか(たけみかずちのみこと)
かり、船を繋いでもやった
のがこの石だとも云われま
す。丁度この辺りまでが豊
鹿島神社の社地だったそう
です。
縄文銀座
文 素っ頓狂
『鹿島様の北から東隣は縄
文時代に大賑わいをしたと
ころだって?』
『六千年から五千年も前っ
てことだ。その後にも続く
らしい。』
『もしかしたら、弥生時代
にもつながるの?』
『そこが分からないところ
で、残念なんだってさ。』
豊鹿島神社本殿の右側を
登って奥の宮へ行く途中右
側に、パーッと視界が開け
て、東大和市の市街が見渡
せるところがあります。
ここが、鹿島台遺跡で、
縄文時代前期末(約六千年
前)から中期にかけての遺
跡が集中して埋まっている
可能性があります。
これまでに、直径約六メ
ートルの六角型のほぼ円い
型をした住居跡や沢山の遺
物が発掘されています。
縄で文様をつけた土器や
植物の採集や、木の実や根
をたたき割ったり、磨り潰
したり、弓の矢にしたり、
動物の皮を剥いだりする石
器が見つかっています。
子孫繁栄を祈ったのでし
ょうか、遺跡から、男根を
かたどった「石棒」が発見
されます。神社に祀られて
いることもありますので、
豊鹿島神社にも祀られてい
たかも知れません。
ところが、縄文時代も末
の晩期になると、遺跡は急
速に姿を消し、弥生時代に
なるとほとんど見られなく
なります。鹿島台遺跡の近
くでは、縄文晩期の痕跡が
東村山市の下宅部遺跡、後
期と弥生時代の痕跡が武蔵
村山市の吉祥山遺跡で発見
されています。東大和市で
も見つけたいものです。
狭山丘陵の生い立ち
文 素っ頓狂
『狭山丘陵って、多摩川が
削り残してできたもの、と
聞いたけど、本当?』
『まさか!!多摩川まで随
分距離があるじゃない。』
『それに、多摩川の南にあ
る多摩丘陵は、大昔、狭山
丘陵と地続きだったって話
もある。』
『その間を多摩川が動いた
ってワケ・・・?。』
『その証拠が鹿島様の奥宮
の近くで見られるとは、こ
れまた、何と幸せ・・。』
奥宮から周囲道路に出て(しゅういどうろ)
西武バス停「鹿島台」から(かしまだい)
奥宮方面を見ると、鹿島橋
の橋台の際に土が露出して
います。多摩ローム層と呼
ばれる地層です。東大和市
史では、その下にある芋窪
礫層と併せて、約四十~三
十万年前のものとしていま
す。東村山市史では、多摩
ローム層を箱根火山の火山
灰が積もったものとして、
約二七万~一三万年前とし
ています。
多摩ローム層の下には芋(いもくぼれきそう)
窪礫層と呼ばれる小石混じ
りの礫層があります。これ
は奥多摩から流れ出した古
多摩川が運んだ小石で、芋
窪から蔵敷にかけて、狭山(ぞうしき)
丘陵の土台部分にあります。
丘陵の南は、これらがな
くなり、多摩川が移動して
新しく運んだ武蔵野礫層と(むさしのれきそう)
なり、その上に、より新し
い武蔵野ローム、立川ロー
ムと呼ばれる地層が段階的
に多摩川まで続きます。
これらから、狭山丘陵は
古い多摩川が運んだ礫層の
上に、火山灰が積み重なっ
て、それを多摩川が削って
生み出されたと考えられま
す。その原型をご覧になっ
て下さい。
豊鹿島神社・奥宮
文 素っ頓狂
『ここが、鹿島の神様が最
初においでになったところ
なのですか・・・?』
『感激! 確かに、この辺
の狭山丘陵では一番高いし
北も南も全部見渡せる。』
『よく、神の座って聞きま
すが、ここはその神奈備と(かんなび)
か神籬、磐座、磐境と云わ (ひもろぎ)(いわくら)(いわさか)
れるところなんですね?』
『北側は現在、貯水池にな
っていますが、それ以前に
は石川の流れを中心に、三
十数軒の集落の営みがあっ
たと聞いて来ました。
すると、ここは丘陵の北
と南に住んだ人達の両方が
行き来して、神まつりをし
た原点とも云えるところな
んですね・・・。』
『本当に、その空気を感じ
る。まさに、芋窪村の総社(いもくぼむら)(そうじゃ)
の奥の宮なんだな。』
『あまり知られていないの
が、もったいない!!』
話は尽きません。ともか
く、その場へ行ってみまし
ょう。
豊鹿島神社の本殿右側奥
に石段があります。かって
の芋窪村のそこここに祀ら
れていた諸社が集まってい
て、その間を小道が続きま
す。道なりに登ると人家が
あり、右側に大きく鹿島台(かしまだい)
からの谷ツの展望が開けま
す。縄文時代の遺跡が集中
するところです。
さらに、森の中を行くと
左に「かしまこどもひろば」
があり、やがて「多摩湖自
転車道」の鹿島橋が目に入
ります。その石段を登ると
鹿島休憩所で、奥にあずま
屋があり、その手前左に
「豊鹿島宮 奥宮」の標柱
が立っています。バス停は
西武バス「鹿島台」です。
豊鹿島神社
文 素っ頓狂
『慶雲四年(七○七)に出
来たそうだ・・・。』
『大化の改新が六四五年』
『天智天皇の第四の姫君と
蘇我山田石川麿って人が創(そがやまだいしかわまろ)
ったって話だよ。』
芋窪の鹿島台に鎮座する
東大和市で最も古い神社で
ある豊鹿島神社の創建伝承
です。江戸時代・文政六年
(一八二三)完成の「武蔵(むさしめいしょうづえ)
名勝図絵」に社伝として記
載されています。
奥の院が貯水池の周囲道
路の付近にあり、蓮花寺の
南に祀られている「要石」(かなめいし)
は「鹿島様のかなめ石」と
呼ばれます。この広い範囲
が社地であったとされます。
徳川家康から十三石の朱
印状を受けています。一間
社流造、和洋建築の本殿は
東京都の有形文化財の指定
を受けています。室町時代
の遺構が残り、棟札によっ
て文政元年(一四六六)に
創られたことが確定されて
いるからです。都内でもま
れで、関東の建築史を考え
る上でも貴重なものとされ
ます。外から見えるのは社
殿で、その中に祀られてい
ます。
武御加豆智命を御祭神と(たけみかづちのみこと)
し、棟札に「鹿島大明神」
とあり、鹿島の「武神」が
祀られているところから中
世の武士団との関係が考え
られています。
野火止用水(15)
貴重な原型
文 素っ頓狂
東大和市駅から遊歩道と
なった野火止用水の上を東
に向かって暫く進むと、浅
い掘り割りになり、やがて
雑木林になります。そして、
右側に素堀のままの野火止
用水が顔を見せます。
これが、江戸時代の姿を
現在に伝える野火止用水の
原型です。周囲の雑木林は
後で生育したものでしょう
が、保水の効果のために作
られたのかも知れません。
いかにも武蔵野の雑木林
らしく、思わず林の美しさ
に見とれてしまいます。同
時に、ここに野火止用水の
不思議の一つが隠されてい
ます。歩いているとさほど
感じませんが、地図で見る
と、用水はここで大きく湾
曲します。
なぜ、武蔵野の原の中に
原則、直線につくられた用
水が、この箇所でこんなに
曲がるのかの疑問です。丁
度「ぐみ窪」と云われる低
地にあたり、その関係が考
えられています。しかし、
あれほど精密な測量技術を
もっていた技術集団が用水
路を決定する時、大きな窪
地を見逃すはずはありませ
ん。まして、用水路は低地
側=小平市側に盛り土をし
て造られています。林に入
る前の駐車場からその状況
がよく見えます。時間が許
すとき、是非とも、現地に
立ってお確かめ下さい。あ
とは平林寺まで、ほぼ直線
で結ばれています。
東大和市には野火止用水
の貴重な原型と技術的な謎
解きが残されています。み
んなの誇りとしたいもので
す。これで、野火止用水は
終わります。
野火止用水(14)
小説の野火止
文 素っ頓狂
『夜も流れていますわね』
『もちろん、夜も、・・』
・・・
『ケチな水!』
いきなり吐き捨てるよう
に女が言った。・・・
『え?』
・・・
『今流れているのは下水で
すのよ』
・・・
『私がここを流れているみ
たいな気がして』
・・・
黒井千次氏の作品「のび
どめ用水」の一こまです。
『カスの水であろうとも、
野面を這うように進む流れ
であったなら、その景観に
はまだ救いがあるかもしれ
ない。彼は自らを励まして
野火止用水の始点を求めた』
大岡昇平が「武蔵野夫人」
で、清冽なハケの湧き水に
主人公を置いたのと対する
ように、黒井氏は再生され
た野火止用水に舞台をしつ
らえます。
『このあたりに、野火止用
水というのが流れてはいな
いでしょうか』
『なんだってえ』
東大和市駅の東側の遊歩
道を辿る主人公は親子連れ
に声をかけます。そして、
遊歩道の右手から、コンク
リートで固められた穴を抜
けて水が流れ出すのを目に
して、あ然とします。
東大和市の名前が出て、
枝を離れた欅や木楢の葉が
黄金色に光る時期、玉川上
水駅からレンガの路、東大
和市駅、野火止用水の再生
口までが描かれます。武蔵
野短編集「たまらん坂」の
中の一編です。
野火止用水(13)
幻の水車
文 素っ頓狂
野火止用水に水車が回っ
て、コットン・コットン音
を立てていたら、絵になり
ますね。その可能性があり
ました。
蛍の養殖をしているとこ
ろを過ぎると、雑木林にな
って、野火止用水の景観が
保存されているところに出
ます。この辺りにでしょう
か、明治2年(1869)
高木村の名主が「水車」を
設置して「稼ぎ」をしたい、
支障がないか、と隣接の村
に問い合わせをしました。
直径、約四メートルの水車
で、米・オカボ(陸稲)を
搗き、麦やソバの粉をひき、(つ)
押し麦をつくる営業をした
いとするものです。
照会を受けたのは、小川
村、蔵敷村、後ヶ谷村(狭
山村の前身)、清水村、廻
り田村で、同意を得たら代
官・江川太郎左衛門から許
可を得る手はずでした。村
々の名主は「支障がない」
と答えました。理由は、
「田畑に差し障りがない」
「散水などしてはいけない
ところだから」でした。水
車は上流をせき止め、迂回
路を造って回します。つま
り、流れを変えるだけで、
水量は減らないので、抵抗
がなかったのでしょう。
「稼ぎ」に対しては利益か
ら何らかの還元を求められ
たはずです。
さて、さて、この願いが
叶ったのかどうか、はっき
りしません。もし、残って
いれば、史跡になっただろ
うにと残念です。東村山に
は「オンタの水車」が復元
されています。遠出の散歩
の時、ご覧になってはいか
がでしょう!!
野火止用水(12)
用水北 (ようすいきた)
文 素っ頓狂
青梅街道を横切って東に
進みます。しばらくは暗渠
の上にせせらぎが復元され
蛍の養殖が行われて、貴重
な自然回復の指標になって
いるところがあります。こ
のあたりから左側(北側)
一帯、第三小学校方面に向
かう道をはさんで都営高木
団地の南側の付近(向原六
丁目の一部)までを「用水
北」と呼びました。
江戸時代に高木村の人々
が狭山丘陵の麓から、まさ
に額に汗して武蔵野を開墾
して「新田」(畑)とした(しんでん)
ところです。作業は並大抵
の苦労ではなく「茅湯」と(かやゆ)
いう言葉が残されました。
水に乏しい原野の芝を切っ
ての開墾のため、身体中、
土にまみれ、その汚れを刈
り取った茅で落として風呂
の代わりにしたことから使
われたと云われます。
開墾の後には空っ風に赤
土がもうもうと舞い、「神
棚でゴボウがとれる」との
例え話が伝えられます。
これはいつの頃のことで
しょうか? 高木村に延宝
二年(一六七四)、元禄三
年(一六九〇)の検地帳が
残されています。その中に
「中原」「堀際」「堀端」(なかはら)(ほりぎわ)(ほりばた)
の地名が出てきます。おそ
らく、それから遠くない時
代に開墾が野火止用水まで
達して「用水北」の地名が
付けられたものと考えられ
ます。
しかし、目の前に喉から
手が出るほど欲しい水があ
りながら、自由に使うこと
は許されなかったようです。
野火止用水(11)
青梅橋3 瘡守稲荷 (かさもりいなり)
文 素っ頓狂
向こう横町ではありませ
んが、野火止用水を渡る青
梅橋のたもとにお稲荷さん
があって、お願いをする時
に、先ず、土のだんごを五
つ、願い事が叶うと、今度
はお礼に、米のだんごが供
えられました。
瘡(天然痘)の禍を避け(かさ)(わざわい)
ることから皮膚病・一般の
厄よけ神様となったのでし
ょうか。江戸から昭和に至
るまで、霊験あらたかで御
利益もよほどあったのでし
ょう、多くの方に親しまれ
遠く南多摩の方からもお参
りされたと云われます。
街道の交差する所であっ
たことも一因かも知れませ
ん。東大和市駅・駅広の南
側で、現在駐車場になって
いるところに祀られていま
した。今は五十㍍ほど東に
移されています。
東大和市駅南口の青梅街
道寄りにある案内板「御獄
菅笠」の絵には、青梅橋の
南に鳥居と社が描かれてい
ます。この位置の違いの謎
解きも、歴史の興味を誘い
ます。
東大和市には、このお稲
荷さんに関係して、もう一
つ高木(高木神社の約五十
㍍東)に、「笠森稲荷」が(かさもりいなり)
祀られています。このお稲
荷さんは江戸時代に青梅橋
のかたわらで馬宿をしてい
た方が、近くの瘡守稲荷の
御利益にあやかって、天保
七年(一八三六)に、住ま
いの高木にお祀りされまし
た。ここでも近くの方、遠
くの方のお参りがあり、土
のだんごと米のだんごがお
供えされたそうです。
野火止用水(10)
青梅橋2 みちしるべ
文 素っ頓狂
『すみません、「安永の道(あんえい)
しるべ」をご存じでしょう
か?』
『確か、あの銀杏の木の下(いちょう)
に・・。』なんと歩道!
街道歩きのお年寄りグル(かいどう)
ープに呼び止められます。
青梅橋は古い道の交差点
でした。そのため、頼りに
された道しるべがありまし
た。東大和市駅の南口、銀
杏の木の下に祀られていた
庚申様です(小平市)。
裏側に、西・おうめみち、
北・山くちみち、東・江戸
みち、南・八王子みち、と
彫ってあります。
山くちみちは奈良橋から
山口観音(所沢市)方面、
江戸道は小川村を通って江
戸、八王子みちは立川を経
て八王子へ向かいました。
さて、おうめみちです。
古地図では青梅橋から直線
で青梅へ向かっています。
今はありません。駐車場に
なっているところを突っ切
っていました。江戸城の白
壁を飾る成木で焼かれた石(なりき)
灰が運ばれた道です。
庚申塔は安永五年(一七
七六)に建てられました。
その頃、道の周辺にはほと
んど人家がなく、追いはぎ
が出るようなさびしい場所
でしたが、モノレールの近
くまで、道の中央に立派な
桜の木が植えられていまし
た。千本桜と親しまれ、花
の頃には大にぎわいをした
そうです。
庚申様は、今では信じら
れない姿をずっとご覧にな
っていたことになりますが
道路を広げるため、別の場
所に移られています。
野火止用水(9)青梅橋1
文 素っ頓狂
『青梅橋って、どこにある
のかな・・・?』
笑いこけながら信号待ち
をしている女学生の一群に
言葉をかけると、陽気に鉄
道高架を指さして
『あの西武電車が通るとこ
ろジャン・・・!』
『○☆▲・・・?』
江戸時代、現在の高架の
近くで野火止用水は青梅街
道を横切り、そこに橋が架
けられていました。
橋のたもとに茶店や馬の
繋ぎ場があり、近くに稲荷(つな)
社が祀られていました。青(まつ)
梅街道はここで少し曲がっ
て東大和市駅北側を通り、
現在の桜街道を青梅方面に
向かいました。旅人にとっ
て絶好の休憩地でした。
東大和市駅を小平市方面
に降りて最初の交差点、駅
側信号機のそばに案内板が
あり、「御獄菅笠」(天保(みたけすげがさ)
5年発行・青梅市御嶽山へ(みたけさん)
の旅行記)による当時の青
梅橋とその付近の絵が紹介
されています。またコンク
リート製の「おうめばし」
橋脚の一部が保存されてい
ます。
「青梅橋駅」が「東大和市
駅」に変わり、用水は暗渠(あんきょ)
となって、橋は影も形もな
くなりました。わずかに交
差点の名に「青梅橋」が残
るだけですが、注意深くつ
なぎ合わせると当時の経路
がたどれます。
記念碑となった橋脚の一
部のところから、青梅街道
をへだてて鉄道高架の橋脚
と樹木の間を見通した辺り
がその跡になります。
野火止用水(8)新田開発(しんでんかいはつ)
文 素っ頓狂
煉瓦の路(野火止用水)
を玉川上水駅から東大和市
駅近くまで進むと線路が次
第に高架になり、野球場や
グラウンドが見えるところ
に出ます。江戸時代には武
蔵野新田・青梅道・開発な(かいはつ)
どと呼ばれ、全く新しく切
り開かれたところです。
ここは奈良橋区域ですが(ならはし)
蔵敷(狭山丘陵の麗、高札(ぞうしき)(ふもと)
場跡が保存されているあた
り)の農民が懸命に新田開
発を進めたところです。
寛文(一六六○年代)の
頃のことです。蔵敷は「奈
良橋村枝郷」と呼ばれて、(えだごう)
「奈良橋村」に属していま
した。当時、蔵敷地域の本
百姓(年貢を負担して村を
構成する)は三十四軒でし
た。この人々は、総がかり
で、南に広がる原野の灌木
や芝を切り開きました。
薄く覆う黒土の下の赤土(くろつち)(あかつち)
がむき出しになります。そ
こに風が吹いて、赤風とな(あかっかぜ)
って舞いあがり、辺りが薄
暗くなる程でした。口や鼻
を手ぬぐいで覆い、弁当も
開くことができなかったと
云われます。麦や陸稲が実(おかぼ)
り、野菜のとれる畑になる
のは数年後です。
苦労を重ねて生み出した
開発地は参加者全員で平等
に配分しました。そして二
十五軒が新たに本百姓とな
りました。開発は享保期( (きょうほうき)
一七十○年代)まで続き、
ついに野火止用水まで達し
ました。この間に、蔵敷地
域の人々は奈良橋村から念
願の独立を実現しました。
「蔵敷村」です。血と汗の
結晶である村の門出です。 (かどで)
野火止用水(8)新田開発(しんでんかいはつ)
文 素っ頓狂
煉瓦の路(野火止用)を
玉川上水駅から東大和市駅
近くまで進むと線路が次第
に高架になり、野球場やグ
ラウンドが見えるところに
出ます。江戸時代には武蔵
野新田・青梅道・開発など(かいはつ)
と呼ばれ、全く新しく切り
開かれたところです。
ここは奈良橋区域ですが(ならはし)
蔵敷(狭山丘陵の麗、高札(ぞうしき)(ふもと)
場跡が保存されているあた
り)の農民が懸命に新田開
発を進めたところです。
寛文(一六六○年代)の
頃のことです。蔵敷は「奈
良橋村枝郷」と呼ばれて、(えだごう)
「奈良橋村」に属していま
した。当時、蔵敷地域の本
百姓(年貢を負担して村を
構成する)は三十四軒でし
た。この人々は、総がかり
で、南に広がる原野の灌木
や芝を切り開きました。
麦や陸稲が実り、野菜の(おかぼ)
とれる畑になるのは数年後
です。僅かの黒土の下の赤(わず)(くろつち)(あかつち)
土がむき出しになります。
そこに風が吹いて、赤風と(あかっかぜ)
なって舞いあがり、辺りが
薄暗くなる程でした。口や
鼻を手ぬぐいで覆い、弁当
も開くことができなかった
と云われます。
苦労を重ねて生み出した
開発地は参加者全員で平等
に配分しました。そして二
十五軒が新たに本百姓とな
りました。開発は享保期( (きょうほうき)
一七十○年代)まで続き、
ついに野火止用水まで達し
ました。この間に、蔵敷地
域の人々は奈良橋村から念
願の独立を実現しました。
「蔵敷村」です。血と汗の
結晶である村の門出です。 (かどで)
野火止用水(7)水喰土 (みずくらいど)
文 素っ頓狂
『水喰土って、玉川上水の
水が途中で、土の中に吸い
込まれて、なくなってしま
うことでしょう?』
同じようなことが野火止
用水にもありました。これ
は一昔前の小学校の教科書
「国語読本」にもあった話
です。野火止用水が掘り上
がった時、どうしても流末
まで水が流れない。松平伊
豆守信綱は地勢の高低を間
違えたのではと、責任者の
安松金右衛門をなじる。
金右衛門は、今は水が地
下にしみ通っている時、や
がて絶対に流れるからと少
しも動じなかった。ある夜
雷とともに大雨が降って見
事に用水に水が溢れた。と
いう話です。この伝承を地
元で伝えるのが小平市にあ
る「一宮神社」です。 (いちのみやじんじゃ)
ゴミ焼却施設(小・村・
大衛生組合)の玉川上水駅
寄りの塀に沿って、小径を
南に入り右折すると、正面
に鳥居が見えます。中島町
一番地の三十六。
『・・・、小川開拓者のひ
とり宮崎主馬は分水口の近(みやざきしゅめ)
くに祠を建て水分神と豊受(ほこら)(みくまりのかみ)(とようけのかみ)
神)を祭って、山の神と称
し、通水祈願をしました。
神慮にかなったのか、突然
大雨が降り出し、一夜にし
て玉川上水の清流は水音を
たて野火止用水を流れたの
です。・・・』
と説明があり、農耕の守護
神として祀られています。
宮崎主馬は神明宮の神主
で小川新田の起点ともなっ
た一本榎の熊野宮も祀りま
した。煉瓦の路から五分も
かかりません。
野火止用水(6)村境い
文 素っ頓狂
『野火止用水が村の境だっ
たってことは、野火止用水
ができてから村ができたと
云うこと・・・?』
野火止用水ができた頃、
東大和の村々は狭山丘陵の
中と南の麓にありました。
その南はずっと立川まで原
っぱで、小川村はまだあり
ません。煉瓦道の辺りは一
面カヤに覆われた原の中に
用水が一筋流れているまさ
に武蔵野の風景でした。
現在は用水の両側に木が
茂っていますが、それは後
に植えられたもので、原の
中に掘り上げられた土が小
高く土手になっている程度
だったと思われます。
箱根ヶ崎から田無まで
「原野で人家もなく、寒暑
風雨の節、往来の人馬は渇
水に渇き至極難儀・・・」
ということでした。そこへ
目を付けたのが、岸村(武(きしむら)
蔵村山市)の小川九郎兵衛
さんです。江戸への石灰が
盛んに運ばれていた青梅街
道と玉川上水の水を利用し
て「石灰伝馬継」の村をつ(せっかいてんまつぎ)
くろうと、新田開発を計画
して、許可を得ました。明
暦三年(一六五七)から開
墾を進め、苦労を積み重ね
て、小川村ができました。
狭山丘陵の麓に住む東大
和の村々の人々も、この動
きに合わせるかのように、
地続きの南の原を開墾しま
した。そして、両方の村の
開発が行き着いた先が野火
止用水でした。
『その結果が村境と云うこ
となんだ・・・。』
『単純ではなかったと思い
ますが・・・。』
野火止用水(7)寄り道
文 素っ頓狂
『こんなに大きいの?』
『これは玉川上水で、野火
止はもう少し狭くて、もっ
とU字型です。』
約三百年経っているのに素堀の具合は当時の姿を残しています。
小平監視所のすぐ東大和市駅寄りに、玉川上水への降口があります。
野火止用水(5)煉瓦道
文 素っ頓狂
『これが野火止?』
『きれいな水が流れている
と聞いてきたのに・・。』
『はい、もう少し下流に行
くと、素堀の堀と流れが見
られるのですが・・・。』
取り入れ口と用水の出発
点は煉瓦の遊歩道。
『どうして、こうなったん
ですか・・・?』
第二次大戦後、武蔵野は
一挙に開発され、用水の近
くにも宅地化が押し寄せま
した。用水に家庭用の雑排
水や周辺の廃水が流入して
水質は悪化し、飲料水や灌
漑用水として使えなくなり
景観は荒れてきました。加
えて、昭和四八年(一九七
三)東京の水不足から玉川
上水からの分水が中止され
てしまいました。水の流れ
ない荒れた溝、一時、ゴミ
捨て場に近い状態までに荒
廃してしまいました。
その状況を見かねて野火
止用水の歴史環境保全運動
が高まり、昭和五十九年
(一九八四)に清流の復活
が実現しました。残念なが
ら、その間にこの部分の素
堀の用水路は煉瓦の遊歩道
に変わってしまいました。
『では、用水そのもののル
ートも変わってしまったの
ですか?』
幸いなことに、ほぼ江戸
時代の用水の跡を残してい
るとされます。当時の小川
村(現・小平市)と蔵敷村(ぞうしきむら)
奈良橋村、高木村など現在(ならはしむら)(たかぎむら)
の東大和市の村々は、用水
の真ん中を境としていまし
た。そこに向かって黙々と
新田開発を進めました。そ
の労苦もたどれます。
が行政界でした。 仕方がないから、遊歩道
を歩きますが、最初は真っ
直ぐに進み、やがて大曲に
なります。この付近から東
大和市と小平市の行政界に
なります。この下に直径五十
センチの導水管が埋められ、
そこを復活された野火止用
水は流れています。
【歴史の散歩道】
野火止用水(4)分水口
文 素っ頓狂
『エッ?真面目な顔して誤(ごまか)
魔化さないで下さいよ。あ
んな筒ッポが野火止の取り
入れ口なんて?』
コンクリート造りの沈砂(ちんさち)
池から東大和市駅方面に向
かうと、木立の間に白い塔
が立っています。
『江戸時代の分水口絵図で
は、周りを石垣で積み「水(みずくち)
口六尺」ですよ。』
『分水は玉川上水七分、野
火止三分でしょう。単純計
算では、取り入れられた多
摩川の水の三○%を野火止
へと流す装置のはず。』
『こんな筒ッポでどうやっ
て沈砂池からの水を分ける(ちんさち)
のですか。』
まあ、そう焦らずに!!
羽村の堰で取り入れられ
た多摩川の水は沈砂池まで
来ます。ここで濾過される(ろか)
と、そのまま全て地下の導
水管で東村山浄水場へ運ば
れてしまいます。
だから、下流には水はな
いはず。しかし、玉川上水
にも野火止用水にも実際に
水が流れています。まさか
湧き水ではあるまいし。
『では、どうして?』
実は、その水は昭島市に
ある広域下水処理場で処理
された処理水です。処理場
から地下の管を通って、は
るばる白い塔まで送られて
来ます。もちろん高次処理(こうじ)
をしていますから、衛生上
の心配はないとのこと。
塔の中では、その水を玉
川上水と野火止用水にセッ
セと振り分けています。塔
は分水口であると同時に、
「清流の復活」を行ってい
るところです。イヤハヤ。
【歴史の散歩道】
野火止用水(3)工事
文 素っ頓狂
『それ本当!四十日?』
疑いの目が光ります。野
火止用水の工事の期間です。
いくら武蔵野の原と云った
って、延長約二十五キロ、
ユンボやブルトーザーがあ
るわけでなし・・・?
承応四年(一六五五)と(じょうおう)
云いますから、三代家光の(いえみつ)
後を継いだ家綱の時代。一(いえつな)
帯は「鷹場」に指定されて(たかば)
いて、獲物が豊富になるよ
うに繁殖につとめ、鹿やム
ジナを追うことが禁止され
るなど結構厳しい規制があ
るところ。
二月十日に掘り始めて、
三月二十日に終わったと伝
えられます。玉川上水が出
来上がって(承応三年六月
とされる)一年も経ってい
ません。玉川上水の完成に
尽くした松平信綱への褒美(まつだいらのぶつな)
で、特別な計らいによる分
水とされますが、呆気にと
られた幕府の閣僚も居たの
ではないでしょうか。
工費は三千両、松平信綱
が用意したそうです。設計
は家臣(代官)の安松金右(やすまつきんうえもん)
衛門が担当して、実際の工
事の指導・監督にも当たり
ました。一説には安松金右
衛門が信綱に野火止用水を
引く提案をしたとも云われ
ます。
農民を強制的に使う徴用
や助郷ではなく、仕事をす(すけごう)
る人に賃金を支払って工事
を進めたとされます。東大
和の村々から、当時の村人
たちが参加したかどうか、
賃金はいくらだったのか、
など、細かな内容はわかっ
ていません。
【歴史の散歩道】
橋がないのに青梅橋、な
ぜ? 学校帰りの高校生に
聞くと、だって西武線の高
架があるジャン
野火止用水(2)取入口
文 素っ頓狂
西武拝島線「玉川上水駅」(内はルビ)
南口を出て、すぐ左に曲が
ると玉川上水。両側にちょ
っと小高くなっているのは
上水を掘りあげたときの残
土。南側にある小さな坂は
はるか遠い昔、多摩川が流
れた岸辺の名残り。
やがて、物々しい施設が
目に入ります。現代のハイ
テク「水番所」・東京都水 (みずばんしょ)
道局小平監視所です。松平 (こだいらかんしじょ)
信綱はここに野火止用水の
取入口をつくりました。
何故ここに? 極めて厳
しい地理の条件+政治?
野火留まで、なるべく真 (のびどめ)
っ直ぐで、水が自然に流れ
る勾配がとれ、玉川上水と (こうばい)
接するところ。それが決め
手。夜になって、提灯を持(ちょうちん)
たせ、その明かりの高い低
いで勾配を割り出したと云
う話があります。どうもそ
れだけではこの地点は選べ
そうもありません。あたか
もこの時、幕府では武蔵野
開発の必要に迫られ信綱が
音頭を取っています。そこ
で出てくるのが玉川上水の
ルートとの関係。
玉川上水の多摩川からの
取り入れは、最初、府中・
国立、福生などを予定した。
しかし、工事に失敗したり
地質の関係から羽村になっ
たとの書上があります。も (かきあげ)
し、取入口が府中や国立で
あったら野火止用水はどう
なったでしょう。
ここに、歴史の鍵があり
そうです。玉川・野火止両
方の設計に信綱の家臣で測
量に詳しい安松金右衛門が (やすまつきんえもん)
関わっています。壮大なド
ラマが眠っているのかも。
【歴史の散歩道】
野火止用水(1)
素っ頓狂
誰が付けたのか、なんと
余韻のこもる名前でしょう。
江戸時代、茫々と原野の続
く武蔵野に、一筋、水路が
切り開かれました。行き着
くところは新河岸川・「野
火留村」、今の志木市でし
た。笑話でも知恵の殿様と
親しまれる松平伊豆守信綱
が川越城主で、その地を治
めていました。
「野火」が村の名前にな
る原野、信綱はその地をど
うにかして米のとれる地に
しようと、綿密に計画を練
ったようです。江戸の水事
情が緊迫化して、多摩川か
ら江戸市中へ上水を引き込
もうとの玉川上水・・・。
だが、それだけでは、自
分の所の野火状況は解消で
きない。何とか、玉川上水
を利用して、野火留まで水
を持ってこられないか!!
偶然の一致? 時を合わ
せるかのように伊豆守信綱
は玉川上水工事の総括責任
者になります。そこからは
まっしぐら。工事の完成も
もどかしく、野火留に水を
引く分水許可を得ます。
実は、許可の前に野火留
では新田開発に手が着けら
れているという早手回し。
野火止用水を「伊豆殿堀」
とは良くも云ったり。
その玉川上水から野火止
用水に分かれる出発点が東
大和市と小平市の接すると
ころにあります。歴史散歩
ここからご一緒に始めませ
んか!!
先日はご苦労様でした。新しい体制が出来て一安心です。よろしくお願いします。9月の中頃にでも引継をお願いします。
依頼のあった原稿を作ってみました。ご指示の通り
歴史の散歩道
野火止用水
見出し5行
本文46行
12字詰
ですが、感違いがあるといけないので、早めに送ります。
野火留めは3回~5ほど続けるつもりです。 最初なので年号など入れずに気安くしました。
挿絵、画像が入るのかどうかわかりませんので、取りあえず、縮小しやすいようにして、見本を添付しておきます。
画像の説明を付けるとしたら「向原4丁目先の野火止用水」とでもしたらどうでしょう。
次回から、取り入れ口など具体的な場所を案内します。 必ず画像を添えますので、割付のホーム、字数、画像(特に大きさ)の扱いを決めてご連絡下さい。
2002.8.19.
野火止用水(1)
誰が付けたのか、なんと余韻のこもる名前でしょう。江戸時代、まさに茫々と一面の原野の続く武蔵野に、一直線に人工の川が作られました。行き着くところは新河岸川、そこに「野火留村」がありました。今の志木市です。講談でも知恵の殿様と親しまれる松平伊豆守信綱が川越城主で、その地を治めていました。
「野火」が村の名前になるくらいの所、松平の殿様はその地をどうにかして米の採れる地にしたかった。知恵を絞りに絞って、密かに計画をたてます。江戸の水事情が悪化している。多摩川から江戸市中に水を引き込もう=玉川上水計画。だが、それだけでは、自分の所の野火は解消出来ない。何とか、その玉川上水を利用して、野火留まで水が引けないか!!
玉川上水の水路を見ると何やらその辺の気配が今でも迫るから不思議です。頃合いを合わせるかのように、松平の殿様は玉川上水を引く担当になります。こうなると、さすがで、玉川上水の工事の完成に合わせるかのように、野火留にその水を分けて引く許可を得ます。
分岐点は、道では「追分け」と情緒を込めて呼ばれます。用水では「分水」で、これは権利の権化になります。その「分水」の出発点が東大和市と小平市の接するところにあります。歴史の散歩、そこからご一緒に始めませんか!!
志木街道の旧道
文 素っ頓狂
『どうして志木街道って云うの?
奈良橋から武蔵大和駅のガードの下を通っている道でしょう』
『うん、清瀬に「宿」がたち、志木に江戸への新河岸川舟運が盛んになった頃の広域道さ。目的地を街道名にしたんだろうね』
今は都道になり、交通が頻繁ですが、丹念にたどると、所々に旧道が残されています。狭山地区では、狭山と清水の境界近くにある図の道です。
道幅二間(あるいは二間二尺=四㍍)、単に馬ばかりでなく、荷車の交差も可能であったと思われます。ところが、奈良橋地区に残されている道は二間あるか無しかで、とうてい荷車の交差はできません。また道の形が複雑に入り組んでいます。この道の不思議なところです。
この道は何に使われたのでしょう? 清瀬市にこの道を使って青梅から石灰を運んだ記録が残ります。それまでの江戸街道、青梅街道を運ぶよりも新河岸川から一気に船で運んだ方が大量に運べ、運送賃が安価になるからでした。
運搬した品目は江戸時代には、年貢米の輸送が中心で、「一般貨物としては、下りでは、八王子・青梅からの織物、青梅からの薪炭、安松(現所沢市)からの壁土、地元からの酒、近在からの小麦粉、そのほか、大麦・小麦・豆類等の雑穀、箒・荒物等があり、上りでは糠・干鰯・藁灰・油粕等の肥料を筆頭とし、塩・石・綿糸・小間物・荒物・太物等が主な取扱い商品であったようだ。」『志木市史 p378』としています。